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聖書には、「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(箴言14:4)という言葉があります。
これは、教会に適応することができます。
教会に人が居なければ、教会堂も汚れないし、問題は起こりません。しかし、人が集まってこそ.教会は教会として豊かに機能します。
先日、教会で監禁事件が起こった「佐倉王子台チャペル」には、昨年訪問しました。その時、カウンセラーの方から、「問題を持つ信徒さんがいるので、力を貸してほしい」と言われました。
私は、「この教会は手に余る人を受け入れ、戦っているんだな。何とか力になれたらなー」と思いながら帰ってきました。
問題がなく、よく奉仕をし、よく仕え、よく献金をし、牧師を支え、教会の力になってくれる人だけが教会に集まるとしたら、理想的な教会かも知れません。しかし、最初から逸材ばかりが集まる教会では、教会の意味がありません。
教会に最初来る人は、みんな自分で抱え切れないほどの問題を持ってやって来ます。自分ことだけで精一杯ですから、奉仕をしたり、献金をしたりなどという余裕は全くありません。
しかし、聖書の話を聞き、聖書に書かれたイエス様と出会うなら、救われます。
救われた人は、変えられて、自然に、「恩返しをしたい」と心が湧き上がって、自ら奉仕をし、献金をし、教会の力となってくれるようになる人も居ますが、そうならない人も居ます。しかし、これこそが本当の教会の姿です。
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(箴言14:4)
「佐倉王子台チャペル」は、様々な牛が教会に来て、その中の一人によって教会は荒され、カウンセラーの人の命が危険にさらされる事件が発生してしまいました。しかし、この教会は、必ず救いを求めて来る牛たちによって祝福されると思います。
一昨日、私は足をくじいて捻挫してしまいました。靴下を脱いで足を見たら、青くあざができて、腫上がっていました。
もし、外に出かけなければこんな目に遭うことはなかったと思います。しかし、外に出かけるとリスクはありますが、たくさんの人と会うことができるので、牧師の仕事が出来ます。
外に出かけるとお金が飛ぶように出て行きます。教会にこもって仕事をしている方が出費は大きく減らせます。
もし、教会に人がどんどん押し寄せて来るならば、教会で人を待っていて、来てくれた人を導き、助ければいいのですが、日曜日以外にはそうそう人は集まりません。
そこで、人が居るところに出て行きます。
イエス様は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と語られました。
だから、出かけて行って伝道しに行きます。
時には、駅前や街頭に立って、人々に直接伝道をしますが、ある時は、キリスト教の超教派の活動や、地域のボランティア活動のために出かけます。
そのような活動は、通常手弁当です。よくて交通費を出してもらえる程度です。
しかし、ある時は講演者や音楽ゲストで集会に招かれる時は、謝礼とお車代を頂いて帰ってきます。
「不公平だなー」と感じることがあります。
講演をしたり、歌を歌ったり、演奏しに行くのは、教会の方々や実行委員のみなさんによってお膳立てしてもらったところで奉仕をするだけです。もちろん、それは特別な仕事ですが、お膳立てをしてくれる人たちも、同じように苦労をされています。
経済的なことだけを考えたら、謝礼を頂ける仕事以外はしないという選択もできます。
しかし私は、そういう計算や尺度で仕事を引き受けることはしません。
「そこで私が必要とされているか?」「神様が私をそこに遣わしておられるか?」が基準です。
だから、目の前にある仕事を全部引き受けているわけではありません。私は一人だけしか居ません。全部の仕事をするのはとうてい不可能です。
外部の仕事に出かけないで、自宅や教会に居れば疲れないし、問題は起こらず、傷つくこともありません。
しかし、神様に仕える心で出かけ、仕事をするなら、いろいろな人と出会い、いろいろな副次的な祝福を得ることも出来ます。
それが目的で出かけるのではありませんが、神様は、結果的に、想定していなかったいろいろな祝福を与えて下さいます。
昨日は、出かけたので足を怪我しました。そして、今週の一つの奉仕はキャンセルせざるを得なくなりました。しかし、そこにマイナスがプラスに変わる祝福があると信じます。
今はわかりません。しかし、後に悟れると信じます。
ある神を信じる人が、外国に出かけるために車を運転して空港に向かっていました。途中で事故に巻き込まれて、警察を呼び、事故処理を終えてから空港に向かうと、乗る予定だった飛行機が飛び立った直後でした。
「神様、もう一度航空券を買いなおさなければいけないじゃないですか!?どうしてこんなことが起こってしまったのですか!?」とつぶやき、嘆きました。
その次の飛行機に乗って、目的地に向かいましたが、後で知らされたのは、最初乗る予定だった飛行機が、墜落して、全員が亡くなってしまったそうです。
素直に感謝できることではありませんが、「神様が私を守って下さった!」と畏敬の念を抱いたそうです。
私の足の怪我も、何か意味があると思います。神が許されたことに意味がないことはありません。
例えば、謙遜にさせられたり、健康が与えられていることを神に感謝したり、人の痛みがわかるようになって、人に寄り添ってその人を助けられるようになることも意味の一つです。
だから私は、足をくじいたことを神に感謝しています。
もちろん、次からは怪我をしないように気をつけるようにします。
出かけるといろいろなリスクがあります。
クリスチャンが罪を犯さないようにしようとしたら、家にこもって、24時間聖書を読み、祈り続けでもしなければ不可能でしょう。
車の免許を取り、新車を買った人が、ガレージにしまって、車を運転しなければ、車は汚れないし、事故に遭うこともないし、ゴールド免許のままで居られます。
しかし、それでは免許を取得し、車を買った意味がありません。車を運転してこそ免許も車も生きてくるのです。
新しい一週間も、失敗を恐れて消極的になるのではなく、夢に向かって大胆に、そして果敢に挑戦していきましょう。
「ローリスク、ハイリターン」はベストですが、時には、「ハイリスク、ローリターン、いやマイナス」ということもあるかも知れません。
それは、人生の一部を切り取って見るからです。人生全体、一生という視点から物事を見たら、まったく変わってきます。
神を信じる人生は、すべてのマイナスがプラスに変えられ、ピンチはチャンスに変えられます。
神を信じ、神に導かれる道を神と共に歩んで行きましょう。
一日お疲れさまでした。新しい週もよろしくお願いします。
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