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2016年02月21日17:53

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三つ子の魂百まで

川崎中1殺害事件 少年法に対し法曹界からも異論が出る
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=3862357

家庭環境とか親の躾けの良し悪しとかは、子どもの生育に大きな影響を及ぼす。もしかしたら、持って生まれたDNAよりも、生まれ落ちた環境の影響の方が大きいかも知れない。

子どもにとっては、親と家庭環境を選ぶことはできないので、幼少期の生育環境の良し悪しについても、子ども本人には責任はない。したがって、親の躾けが劣悪なために、「悪い子」に育ってしまったのだとすれば、それは子ども本人の責任ではなくて、親の責任、家庭環境の責任ということなのだろう。

しかしながら、子ども本人には責任がないことが根本原因であったとしても、「悪い子」が出来上がってしまった以上、「悪い子」を「不良品」として処分することは許されないし、本人には責任がないからということで、何をやらかそうが免責される、量刑が軽減されるというのまた不合理である。

≪事件取材に詳しく、『「少年A」被害者遺族の慟哭』(小学館)の著者で、ノンフィクションライターの藤井誠二さんは「今回の個別の件に関して量刑が軽い重いはいえない」としたうえで、こう話す。

「どんな少年でも成人でも、裁判において育った環境は考慮され、無視はできません。ただ、環境は1つの材料であって量刑を軽くする材料に何でもするべきではなく、やったことの責任はとるべきだと思います」≫

昔、永山則夫という死刑囚が、『無知の涙』という本を獄中で執筆したが、いくら荒んだ家庭環境で育ったからといって、死刑に値する罪状が軽くなることはなかったし、ちゃんと死刑も執行されている。

未成年だから更生の余地があるという主張は、一見してもっともらしい感じもするが、単なる希望的観測、願望である可能性は高い。

「三つ子の魂百まで」と言われるように、幼い頃に形成されたキャラクターはそんなに簡単には変わらないものである。幼少期に荒んだ家庭環境でいい加減な親に養育されて、ロクデナシとして育ってしまった以上、たぶん彼は一生ロクデナシの人生を送ることになる。

ロクデナシになったのは、たしかに家庭環境や親の責任であって、子ども本人には責任はないかも知れないが、だからと言って、被害者の責任でもないし、誰にオトシマエをつけさせるかということになれば、当人にオトシマエをつけてもらうしかない。

今の法律では、≪0歳〜13歳 :刑事責任年齢に達しないため処罰されない、14歳〜15歳 :刑事裁判の対象外であるが、少年法により処罰される、16歳〜17歳:刑法が適用されるが、死刑→無期刑、無期刑→10〜15年の有期刑に減刑される、18歳〜19歳:刑法が適用される。成人と同じ刑罰を受ける≫といった具合に、年齢が低ければ低いほど、量刑が甘くなるルールになっているが、これだっていい加減なものだと思う。

10歳だろうが、ロクデナシはロクデナシである。彼がその後更生して立派な大人になる確率は、ゼロではないとしても、あまり大きな期待はできないだろう。最初の段階での育成が失敗しているのだから、その後の矯正でリカバリーするのは難しい。

つまりは、あまり更生というものに過剰な期待をしないことである。パソコンの初期設定と同じである。生まれ落ちてから幼少期の躾けをしくじってしまうと、その影響は生涯に及ぶ。途中で簡単に矯正できるようなものではない。サーカスの動物に芸を仕込むのよりも、人間の教育というのはよほど複雑で困難な仕事である。

私見であるが、量刑というのは純粋に当人が犯した罪状だけに基づいて判断するのが一番合理的だと思っている。たとえ被告が5歳の幼稚園児であったも関係ない。あるいは認知症の老人だろうが、精神障害者だろうが同様である。腐ったリンゴは箱の中から取り除くべきだからである。

未成年者が事件を起こすたびに、「光市母子殺害事件」を思い出す。ロクデナシとして育ってしまった以上、17歳だろうが18歳だろうが、罪は罪であり、やったことの責任を負わせるのは当然である。更生したければ、永山死刑囚のように塀の向こう側で更生するなり、自分の罪の重さを懺悔するなりすれば良いことである。

被害者家族の立場からすれば、加害者が大人だろうが子どもだろうが関係ない。ちゃんと犯した罪に見合った量刑を科してもらいたい。それだけであろう。


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