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2016年02月21日17:41

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「憲法9条が改正する必要もなく素晴らしい物であれば、何故世界各国が採用しないの?と、 明けても暮れてもこんな低レベル主張をしている輩がいる。

■<公明代表>改憲、慎重に議論を アジア調査会で講演
2016年02月20日 02:51 毎日新聞
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3860670

●【「憲法9条が改正する必要もなく素晴らしい物であれば、何故世界各国が採用しないの?と、
明けても暮れてもこんな低レベル主張をしている輩がいる。】

思考力ゼロを地で行ってる屁理屈だ。

こんな屁理屈がまかり通ると思っているから、ボケだというんだ。

きまっているではないか。採用しない国家権力者にとっては、素晴らしくないからだ。暴力的権力、非合理な権力にとっては素晴らしくないからだ。なぜ、暴力団が拳銃を捨てないか、暴力団に聞いてみろ!

国家権力を市民的平和権力、市民的平等権力、市民的合理的権力にすれば、憲法9条を採用する国がどんどん増える。

国家権力を市民的平和権力、市民的平等権力、市民的合理的権力にしたところでさえ、まともな人民主権のdemocracy国家になったところでさえ、武力を持つ国は存在する可能性はある。そのときはその暴力装置が主権者人民の暴力装置として機能しているということだ。権力が暴力的権力、非合理な権力でないところなら。

どうしても、暴力装置を持ちたいなら、権力を暴力的権力、非合理な権力から、市民的平和権力、市民的平等権力、合理的権力にして、そのうえでの議論だ。現状のような、暴力的権力、非合理な権力の支配下で、憲法破りの軍事力保持は違憲も甚だしい。

それどころか、憲法を破壊する国家権力者、立憲主義を破壊する国家権力者、憲法で縛られていることを破壊しようなどという国家権力者は、れっきとしたナチスだ。

我が国は、全方位平和外交を行い、戦争しないようにすることで、安全保障を確立する国だ。

我が国の憲法は、完全に、軍事に対する政治(外交)の優越を保障した憲法だ。全方位平和外交をしないで、戦争することを前提とする軍事力優越の国策はとらないのだ。

●人間って本当に闘争心の生物なのか?

【闘争本能についての下記の話は、重要な暗示がある】

我々が武器に頼る心というのは、だれかに仕組まれた心であって、本当の自分の考えとは言い難いものがあるのだ。

(引用元:君の心が戦争をおこす:光文社 羽仁五郎著)
*−−−−* 引用開始 *−−−−−−*
●ギリシャの古代都市には武器はなかった。

 「テラ」という人類最古の都市は、紀元前九世紀―――日本の歴史が出てくる千年ほどまえ―――に、ドーリア人が建てた都市である。テラには、民衆の広場である「アゴラ」という広場があり、そこを中心にして公共生活というものがすでに行われていた。それから、物を測る物差しを彫刻した大理石のテーブルが発掘されている。
 たかが物差しと思うのかもしれないが、物差しは、自分だけが必要とするものではない。それは公共のものだ。日本ではそれぞれの寺がかってに作っていた。奈良の法隆寺の「尺貫」とか、そういうものが、それぞればらばらにあった。
 ところがテラでは、紀元前九世紀だというのに、もうみんなが共通に使う物差しを、大理石に刻んでいる。そういう大理石のテーブルが発掘されている。
 この「テラ」の墓、死んだ人の墓から出てくるいわゆる副葬品というものには、じつは武器というものがぜんぜん見当たらないのだ。日本の古墳なんかからは、剣だの鎧(よろい)だのばかり出てくるが、「テラ」の墓からはそんなものはぜんぜん出てこないのだ。だから、紀元前の都市の市民生活においては、もはや日常、武器を持つという習慣がまったくなくなっていたのだろう。
 この事実がものがたっているように、人間は本能として戦争をやるのではなく、いつのまにかだれかが、そういうふうに考えるようにしたのだということだ。だから、非武装が理想であっても、現実的には武装しなければならないという人間は、すでにその心の内に、誰かほかのものが入り込んでいるのだ。

●好戦的でないから滅ぼされたというギャング式発想
 
 日本のアイヌは、戦争とか武器というものを重んじない。武器、戦争という一方的な暴力を重んじない民族というのは、アイヌだけではなく、世界中にたくさんいる。ミンダナオのタサディ、南インドのトダス、タヒチ人、タンザニアのハツザ、太平洋のイファルク、西太平洋のイアミス、北ヨーロッパのラプランド人、ニューギニアのアラペシ人、そのほかにもあるが、これらのどの民族も、侵略の本能なんてものはもってない。
 このような民族はもっとたくさんいたのだろうが、彼らを現代は抹殺してしまった。たとえば、ニュージーランドから少し離れたところにある、タスマニアという原住民などは、このまえ羽仁進が動物の映像を撮りに行ったのだが、もうすっかり滅びてしまっている。そのタスマニアの原住民なんかも「闘争の本能」などなかったという。
 これに対して、それみろ、そういう民族が滅びたのは、「闘争本能」がないからだというふうな言い方がされる。じつにひどい言い方ではないか。悪いことができないやつは滅びるのだというのでは、ギャングでもヤクザでも、何でもいいのだということではないか。ギャングの側から言わせれば、ギャングでないやつが悪いのだということになる。じっさいそういう理屈で、防衛がどうの、非武装がどうの、非武装が非現実だのと言われているのだ。
 「闘争本能」がないから、そういう民族は滅びるのだとか、日本のような経済大国になれないのだと言われる。このような話を、くだらない評論家連中が、利用してしゃべる。闘争の人生というものをあたりまえだと考えているみなさんが、それをうのみにする。
*−−−−* 引用終了 *−−−−−*

憲法9条には世界を変える可能性がある。

(了)


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