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2016年02月21日16:38

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人間って本当に闘争心の生物なのか?

●人間って本当に闘争心の生物なのか?

【闘争本能についての下記の話は、重要な暗示がある】

我々が武器に頼る心というのは、だれかに仕組まれた心であって、本当の自分の考えとは言い難いものがあるのだ。

(引用元:君の心が戦争をおこす:光文社 羽仁五郎著)
*−−−−* 引用開始 *−−−−−−*
●ギリシャの古代都市には武器はなかった。

 「テラ」という人類最古の都市は、紀元前九世紀―――日本の歴史が出てくる千年ほどまえ―――に、ドーリア人が建てた都市である。テラには、民衆の広場である「アゴラ」という広場があり、そこを中心にして公共生活というものがすでに行われていた。それから、物を測る物差しを彫刻した大理石のテーブルが発掘されている。
 たかが物差しと思うのかもしれないが、物差しは、自分だけが必要とするものではない。それは公共のものだ。日本ではそれぞれの寺がかってに作っていた。奈良の法隆寺の「尺貫」とか、そういうものが、それぞればらばらにあった。
 ところがテラでは、紀元前九世紀だというのに、もうみんなが共通に使う物差しを、大理石に刻んでいる。そういう大理石のテーブルが発掘されている。
 この「テラ」の墓、死んだ人の墓から出てくるいわゆる副葬品というものには、じつは武器というものがぜんぜん見当たらないのだ。日本の古墳なんかからは、剣だの鎧(よろい)だのばかり出てくるが、「テラ」の墓からはそんなものはぜんぜん出てこないのだ。だから、紀元前の都市の市民生活においては、もはや日常、武器を持つという習慣がまったくなくなっていたのだろう。
 この事実がものがたっているように、人間は本能として戦争をやるのではなく、いつのまにかだれかが、そういうふうに考えるようにしたのだということだ。だから、非武装が理想であっても、現実的には武装しなければならないという人間は、すでにその心の内に、誰かほかのものが入り込んでいるのだ。

●好戦的でないから滅ぼされたというギャング式発想
 
 日本のアイヌは、戦争とか武器というものを重んじない。武器、戦争という一方的な暴力を重んじない民族というのは、アイヌだけではなく、世界中にたくさんいる。ミンダナオのタサディ、南インドのトダス、タヒチ人、タンザニアのハツザ、太平洋のイファルク、西太平洋のイアミス、北ヨーロッパのラプランド人、ニューギニアのアラペシ人、そのほかにもあるが、これらのどの民族も、侵略の本能なんてものはもってない。
 このような民族はもっとたくさんいたのだろうが、彼らを現代は抹殺してしまった。たとえば、ニュージーランドから少し離れたところにある、タスマニアという原住民などは、このまえ羽仁進が動物の映像を撮りに行ったのだが、もうすっかり滅びてしまっている。そのタスマニアの原住民なんかも「闘争の本能」などなかったという。
 これに対して、それみろ、そういう民族が滅びたのは、「闘争本能」がないからだというふうな言い方がされる。じつにひどい言い方ではないか。悪いことができないやつは滅びるのだというのでは、ギャングでもヤクザでも、何でもいいのだということではないか。ギャングの側から言わせれば、ギャングでないやつが悪いのだということになる。じっさいそういう理屈で、防衛がどうの、非武装がどうの、非武装が非現実だのと言われているのだ。
 「闘争本能」がないから、そういう民族は滅びるのだとか、日本のような経済大国になれないのだと言われる。このような話を、くだらない評論家連中が、利用してしゃべる。闘争の人生というものをあたりまえだと考えているみなさんが、それをうのみにする。
*−−−−* 引用終了 *−−−−−*

憲法9条には世界を変える可能性がある。

(了)


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