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2016年02月01日02:24

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―脳死・臓器移植に対する思い―&病院殺人事件? 私の夫は臓器欲しさの病院に殺された

私は、免許書の裏にも臓器移植しないと書いてます。
日本の病院でも臓器のためになかなか死なない患者の首を絞めている現場を目撃した家族がいます。

病院殺人事件? 私の夫は臓器欲しさの病院に殺された
https://www.youtube.com/watch?v=SHOiV5UvlrI

http://www.bakubaku.org/inochi-88.html
バクバク88号より

永瀬哲也(東京都)


 冒頭から恐縮であるが、以下の状況を想像して欲しい。

 「交通事故を原因とした10歳の女の子に脳死判定がなされた。両親は尋常ではない精神状態であるにもかかわらず、短時間のなかで決断を迫られ『回復は困難であること。臓器提供は他の人の役に立つこと。この子の臓器はどこかで生き続ける。』という言葉を聞き、混乱の中で法的脳死判定実施と臓器提供の承諾をしたのだ。意識不明、人工呼吸器をつけているが、まだ温かい体のその子の動いている心臓がえぐり取られるのだ。手術室にはママもパパも一緒には行けない。一人ぼっちで冷たい手術台の上に乗せられ、胸がメスの刃先で切り裂かれていく。その瞬間、死亡を宣告されたのに血圧は上昇する。でもそんなこともおかまいなく、心臓の鮮度だけが気にされて、心臓の取り出しはどんどん進んでいく。傷付けられ、冷たくなった子の体が親元に帰ってくる。数ヵ月後、母親が掃除をしている最中に亡き娘の机の中にあるノン・ドナーカードを見つける。カードにはこう書いてある。『脳死は人の死ではありません。脳死状態における臓器提供は致しません。』と。そしてカードの裏を見る。そこには見覚えのある娘の可愛い字で、自分の名前のサインがしてあった。」


 我が国でもこんな恐ろしい事態が起こり得ることとなった。今回成立した臓器移植法改定A案により、脳死を死とすること、本人の意思が不明でも、またそれが年齢制限なく、家族の承諾で脳死下臓器摘出が可能になった。「命のリレー」という甘い言葉の裏で、このような悲しく、惨いことが起きても誰も法的責任を負わないことになったわけである。また、この改定を契機に脳死下も含む臓器摘出・移植の普及が国、推進団体、推進派学会・医師、報道機関などによって強力に推進されている。


 自分の娘の死というものを覚悟し、自分の腕のなかで娘が心肺停止となっていくという経験、娘を放っておけば数ヵ月後に命を落とす可能性が高いが、一方で手術をすれば50%の確率で手術室で命を落とすかもしれないがどうするか?という決断を迫られた経験をした筆者にとっては、このような光景を想像し、描写することは出来ることなら避けたい、胸が締め付けられる嫌な作業である。しかし、このような光景を自分の起こり得ることとして思いを馳せて、そこで初めて心の奥の方から湧き上がってくる人間の感情といったものを信じて味方にしなければ、生きている可能性のある温かい人間の体から、動いている心臓や他の臓器を新鮮なままで取り出して、とにかく移植を進めたいという勢力による巧妙な世論操作には勝てないと感じている。


 さらに今回のA案の成立で、死んでいないのに死んだのも同然として犠牲になる人達(特に子ども達)が増加すること、重い障害などを持っている人達に対して、「機械の力を借りないと呼吸できない人は生きているといえるのか。社会に貢献できない人間が社会に何らかの貢献ができる人の犠牲になるのは良いことである。」という思想からくる圧力や攻撃が一段と強くなることに強い危機感を持っている。生命に軽重がつけられ、命の優先順位がつけられ、生きる時間が前倒しにされることが当たり前になってくるのではと恐れている。筆者自身も直接・間接に既にこのような圧力を受けたことがあり、弱い立場の者、社会に貢献しづらい者の命の順位は劣後するという考え方が既に存在していることもはっきりと自覚している。生きている者にまで命の線引きが食い込んでくるこれらの動きを何としても食い止めたい。そのためにはより多くの人に「語られていない真実」に思いを馳せて、感じて欲しい。だからこそ、敢えてこのようなおぞましい光景を描写したのである。
 
 紙面の都合で詳細は避けるが、脳死を死とすることの大前提になる脳の有機的統合性に関してはアラン・シューモンを始め、既に科学的な根拠がないと決定的な批判がなされており、また脳死を死とする判断基準や実際の判断プロセスにおける問題点の指摘や批判、警告は多いが、移植推進派からはそれに対する反論がないか、あっても全く科学的でないものがほとんどである。批判・警告は正当なもので反論が出来ない。そこで感情に訴えるしかない。泣き落としと脅しの作戦に出ようということらしい。科学者が自ら科学的な視点を放棄し、議論を忌避し、また、事実を歪曲してでも、人の感情に訴えかける手段によって臓器提供を増やすための世論操作を進めるという態度が見え隠れする。


 虚言を弄し、臓器を「モノ」としか扱わない。「命のリレー、人の役に立つ」という甘い妄言を吐き、「助かる人を助けないのか」、「日本だけが遅れている。海外渡航移植は海外の人の命を奪っている。自分の国の人間の命は自分の国で守ろう」といった脅しも行う。従来より「臓器提供したい人の権利も、したくない人の権利も守ろう」などと言っておきながら、「したくない人やその意思を表せない子ども」も自分以外の家族の承諾で臓器を取り出されることになってしまうA案を支持するという裏切り。これらが本来科学者であり、人間の命を守ることを職業とする医師の一部を中心に行われていることに心底恐ろしさを感じている。


 私は日本の医師・看護師などを尊敬し、信じてきた。基本的には今でもそうなのだ。責任も重く、精神的にも時間的にも過酷な労働条件のなかで、病状を冷静に判断し、患者を温かく見守る。最善を尽くしても救えない命に焦燥感を感じながら、自らを奮いたたせて、また現場に赴く。私が最も敬意を払っているプロフェッショナルたちである。


 2年前に13トリソミーという重症な障害を持って生まれてきた娘が、意識不明で人工呼吸器をつけていながらも、今も自宅で穏やかに生きていて、我々が幸福を感じられるのは、そのような医師・看護師のみなさんのおかげだ。予後が極めて悪い病気であり、治療のデータも限られる状態であっても、諦めずに娘を一人の人間として扱ってくれた。心温かいケアで、我々3人が幸せに過ごせるよう最善を尽くしてくれた。絶望の中から希望を見出せた。


 だからこそ、盲目的に脳死=死を信じ、臓器移植を推進せんとする医師・研究者達に問い掛けたい。一人一人が真実を前にして、自らの胸に手を当てて考えて欲しいのだ。


 「本当に脳死を死としていいのか。」−科学的に正しい定義だと自らが判断しているのか。世界的潮流と言われている他国での動向こそが不徳を原因として起きているのではないか。日本がこの流れにすぐに乗らなかったことこそが、日本が世界に示した正義ではなかったのか。一般人に都合の悪い事実やデータを無視したり、隠したりはしていないか。自分達が焚きつけておきながら、ドナーや家族の意思決定だからと罪悪感を誤魔化していないか。社会の為に使えるものは生きている人間の臓器であっても使おうという功利主義が弱い立場にいる者を追い込んではいないか。臓器が欲しいばかりに大事な何かに目を瞑(つむ)ってはいないか。「脳死は本当に判定できるのか?」−基準や判定のプロセスにおいて既に指摘されている問題点に自らが科学的に回答できるのか。学会や国が決めた基準であっても、一人の医師として本当に正しい基準だと思えるのか。判断が楽になるからとその基準の正しさを考えずに、ただ寄りかかって人を死に追いやっていないか。救急医療の手を尽くしたからといって、脳死=死を安易に受け入れていないか。全力での救急が脳死=死の免罪符になっていないか。


 臓器提供をやりたければやればいいじゃないかという人任せな態度だけは避けて欲しい。自己決定が問題なのではなく、脳死が死であるという概念、その前提が本当に正しいのか。脳死の判定は正確にできているのか(できるのか)といったことをどうか自ら確かめて、そのうえでもう一度冒頭の描写を思い浮かべ、現実の悲劇に思いを馳せて欲しいと願っている。
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