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2016年01月21日16:54

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支援体制

■老後は「1人暮らし」が幸せ 家族同居より生活満足
(産経新聞 - 01月21日 10:09)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=133&from=diary&id=3813724

あまり「安易な結論」にしない方がよいと思いますけどね。
これは「一人暮らしが良い」のではなく、「家族との絆が切れている」ことの現れに過ぎません。

子供が幼い頃は、行動単位が「家族」でしたが、子供が高校生、大学生になって行くと次第に行動単位は「個人化」して行きます。
「家」という接点は共有しているものの、その行動は相互に干渉しない、という関係でした。
親も若く活動的である間は、相互干渉が希薄であっても、「家」を共有していることで「絆」は結ばれていると考えていました。
しかし、それは相互に干渉しない、依存してはいけない関係でもあったのです。

現在の70歳台、80歳台は、昭和30年から40年代で若い父母として過ごした世代でもあります。
「ニューファミリー」とか「核家族」と呼ばれる老若分離世帯を形成し、刺激的な都会生活で家族親族との煩わしい人間関係と距離を置いて、気ままに過ごしてきた人たちです。
それ以前の生活の深部まで他人と共有する共同体的社会に反発して、希薄な人間関係を望んできたわけです。
老後においてもそうした関係を維持したいと考えるのはある意味成り行きかもしれません。

ただ、他の家族に迷惑を掛けない独立した生活を送りたいと、距離を置いて生活してきた場合、突然介護が必要になり、家族が通いで世話したり、同居するようになるとそれまでの生活習慣の違いから軋轢が生じるケースが多く見られます。
概ね、介護される側となる高齢者が「我慢」するケースが多くなり、欲求を封じて生活することがストレスとなり、認知症を発症させることもあります。
逆に、同居しても「我」を通そうとすれば、「面倒を見てやっているのに」とする家族と衝突するようになり、それが虐待や介護放棄につながります。
親子と言えども一定の長期にわたって離れて暮らせば、生活習慣を理解し合うのにかなりの努力が必要になります。
互いに年齢が高くなれば、生活習慣を変化させることが難しくなります。
施設などの他人のところで暮らす場合は、そこに従わなければならないという他人への意識になりますが、家族の場合は「理解してくれる」という甘えがどこかに出てくるものです。
そのことが、相互に意識の落差として軋轢になってくるわけです。

田舎に住んでいた父親に認知症の症状が出てきたことから都会の息子家族が父を引き取ったケースを経験しています。
農家に暮らしていた父に都会の狭いマンション暮らしがなかなか適応出来ませんでした。
マンションを出てもどこに土が露出した場所はなく、どこまでもコンクリートとアスファルトが続くばかりでした。
田舎の家の庭の片隅で排尿しても、それほど大きな問題にはなりませんが、マンションのベランダの植木鉢に排尿すれば、立派な「問題行動」です。
私が関わったところ、木訥とした田舎の好々爺というイメージでしたが、家族にとっては生活落差が我慢ならなかったのでしょう。
やがて、暴力的虐待が始まるようになり、最終的にこの父親は隔離精神病院に収容されることになってしまいました。

これとは逆に若い頃は厳格な性格であったことから、引き取った家族がトラウマ的にまた厳しく怒られるのではないかと懸念し、認知症を発症している親の言いなりにさせていました。
そのことで引き取った家族側がノイローゼになってしまったケースもあります。

介護が必要になった、認知症になった、その時から生活習慣も気候も違う土地に引き取って生活を一つにしようとしてもうまくいなかいケースの方が多数です。
やはり、家族がいる場合は、相互に意思疎通が出来る間から交流を重ねておかないと同居は難しいのだと感じています。
だからといって、介護が必要と知っていながら正当な理由なく放置すれば、扶養義務放棄と見なされてしまいます。

独居が快適に出来るために、周囲のサポート体制がどれだけあるのか、ということにかかっています。
家族がいなくても友人が居ればいい、という人もいますが、同世代の友人というのは自分と同様に歳を重ねて行くのです。
やがては行き来が困難になってしまいます。
やはり、独居、老老を支えるには公的介護保険制度と地域全体での支援の二本柱がなければ難しのです。

そういう意味では、ある程度元気な高齢者を対象にして独居高齢者の満足度を測っても実態とは乖離したものになるだけです。

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