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2016年01月12日09:15

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かなり内輪ネタですが

文末にあるライターの「森下香枝」という名前、どうも記憶がどこかに・・・ どっかでみたことあるような・・・。 と思ったら、ようやく思い出した。

実はこの人、面識もありまして。 それはどこかと言いますと、大阪日本橋にあった「日本コンピュータクラブ連盟(通称:日コン連)で、会長の山本隆雄を通じての知り合いでした。
「ハッカー」なる単語が闊歩していた1990年代、なにかネタを探してそれを手繰り寄せて行くと、8割くらいがこの「日コン連」にたどり着き。 そう、8割も同じ情報の出所(ソース)が発生すること自体が、胡散臭いことの証明でもありまして、ココにたどり着いた時点で「ああ、ガセか(笑)」と思いながら、その「ガセ」の裏を取るために、この山本隆雄に話を聞きに行く。
まぁ、白夜書房あたりの雑誌に取り上げる分には「噂半分」で構わないのだけど、然るべき立場の新聞や雑誌には、とても彼のコメントを鵜呑みにして掲載できない・・・くらいの与太者でありまして。

この日コン連にぶら下がって情報を収集していた記者(今思えば「日コン連の『番記者』」ですな(笑))の一人が、この森下香枝でした。
未だにこちらの世界で活躍している(しかも改姓してないから50歳にして未婚か)のだから、それなりに改心されてはおられるんでしょうけど・・・
どうも当時の「日コン連」の番記者連中は、山本隆雄のコメントを鵜呑みにして、碌な裏取りや校閲もせず、ある種山本隆雄の言うがままに、彼自身と日コン連の宣伝媒体として、そのまま大本営発表記事を「バカ記者」の印象をぬぐえないので、その心証はついてまわるということですよ。

まったく本文とは関係ないという・・・

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■織田家16代当主・織田裕美子「その時代、女城主だったらと思うと恐ろしくなります」
(dot. - 01月12日 07:11)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=3798787

 血で血を洗う戦国時代に、過酷な運命に翻弄されながらも健気に生きた女城主たちがいた──。2017年のNHK大河ドラマの主人公に決まった井伊直虎はじめ、織田信長の叔母であり岩村城城主・おつやの方もそのひとり。その知られざる素顔を織田家16代当主・織田裕美子さんが語った。

*  *  *
 全国的にはあまり知られていないのですが、織田家にも女城主がいました。

 織田一族の居城は小牧、犬山などにいくつかありましたが、岩村城は岐阜県恵那市に今でも立派な城壁が残っています。

 鉄壁の守りを誇る山城で戦国時代、武田信玄と信長の間で争奪戦が繰り広げられました。甲斐への入り口として注目した信長は、城主の遠山景任(かげとう)と同盟を結ぶため、自分の叔母である「おつやの方」を嫁がせました。関係上は叔母ですが、信長と同年代で絶世の美女だったと言われています。

 時代劇などではほとんど出てきませんが、おつやの方は、地元では有名な存在で「女城主」(岩村醸造)という日本酒にもなっており、非常に人気があります。私は茶道家なので、新年の初釜の集まりの折は、先祖を偲んで必ず、「女城主」で乾杯します。

 しかし、おつやの方の人生はあまりに残酷でした。 結婚生活は長く続かず、夫は病死。子供はいなかったので、おつやの方は信長の幼い五男を養嗣子にし、自らが当主の座につき、信長は多くの軍勢を岩村城に送り込みました。

 しかし、その後、徳川家康が武田軍との合戦に負けるなどし、信玄に岩村城を奪われてしまいます。

 おつやの方は領民や家臣を守るため、新城主となった信玄の部下、秋山虎繁との再婚を受け入れますが、ほどなく信玄が病死。

 信長は長篠の戦いで武田勝頼を破ると、岩村城を包囲。赦免すると見せかけ、投降したおつやの方を虎繁と共に逆さ磔(はりつけ)で処刑してしまいます。そのとき、おつやの方は泣き悲しみ、「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」と絶叫したとされています。

 当時、女性にとって結婚というのは、「人質になる」という意味もあり、現代の私たちの感覚と全く違います。人を裏切るのも、殺すのも、もっと身近であったと思います。裏切りなどの処罰も何倍も激しく、厳しいものでした。

 戦国の乱世では、信長の妹、お市の方、その娘の淀の方も城ごと落ちて自害しています。信長の妻で斎藤道三の娘だった濃姫も「夫でも裏切る」という気概で嫁いだとされています。

 いま、私は信長の弟、有楽齋の織田家当主ですが、その時代に生まれていたらと考えたら、本当に恐ろしいですね。徳川の3代将軍の家光公時代までは、大名の命でも安かったのですから……。

 何年か前にご縁があり、この地へ伺いました。岩村城は江戸時代、松平家の居城となりましたが、明治政府の廃城令により、1873年に解体。石垣のみとなりましたが、「日本100名城」に選定され、今もお酒「女城主」ともども愛されています。

(本誌・鈴木 顕、森下香枝)
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