http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16282 (写真入り記事)
ここのところ、年末年始の季節感をほとんど感じなくなっています。
例の、「良いお年を!」と「新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!」というあいさつも、あまり意味を感じなくなりはじめています。
それは、年末年始だからといって、街の雰囲気が大きく変わる訳ではないし、大晦日や元旦、正月三が日でも、空いている店が多く、特に不便を感じることはなかったせいもあると思います。
今年の新年は、家族一緒に清里で迎えましたので、いつも住んでいる東京での新年を味わわなかったので、もしかしたら季節感を感じなかっただけなのかも知れません。
しかし、季節感を感じるセレモニーがあります。それは、消防団始式です。
今朝は、早朝から準備をして、消防団始式に参加をし、他の皆さんがリハーサルをしている時間には、来賓の方々の受付をしていました。
今年は、国会議員、都議会議員、区議会議員、区長、区役所関係、防火防災協会関係の受付をさせてもらいました。
手早く対応をしますが、受け取ったお金を処理するのにものすごい多くの時間を費やすので、受付の前に立ったまま1〜2分待たした議員さんの姿が気になり、気が焦りました。しかし、いくら急いでも、お金を管理する人がこれ以上早く動ける訳ではありません。
何かに例えるとしたら、砂時計のようでした。
受付には、「商店街関係者」、「町会関係者」、「議員関係者」、「消防関係団体の関係者」のそれぞれの窓口に分かれていて、各セクションに担当者が立っていて、あいさつをし、お金を受け取ります。「6000円を預かりました。少々お待ちください。すぐに領収書をお持ち致します」と伝えますが、お金の管理をしている人が少なく、その1〜2人に、こちら数人が集中して、「すいません。〜商店街の〜さんのお金を受け取りました・・・。」その隣で、「すいません。〜丁目町会長さんの〜さんのお金を受け取りました。」そのとなりで私が、「〜議員の〜さんからお金を受け取りました。領収書には、〜党と書いて下さい」という具合で、フリーズしたパソコンのような感じで、さながら、お泣けの受け渡しが砂時計のすぼまったところという感じでした。
怒涛の一時間が過ぎ、本番開始スレスレに始式に滑り込み、各団員への表彰が行われ、消防総監、消防署長、消防団長等の訓示があり、区長、区議会議長、都議会議員、国会議員等の来賓の祝辞があり、1時間ちょっとのセレモニーですが、立ったり座ったり、立ったり座ったり、「〜殿に、かしらーー中!」と顔を向け、戻し、一糸乱れぬ動きが続くので、終わった後は、疲れきってしまいました。
毎年、この消防団始式に参加すると、妙に季節感を感じます。セレモニーには意味があるんだなーということを感じます。「新しい年を迎えたんだ!」という気持ちになれます。
帰宅してから、家族で買い物に出かけて、今帰宅し、やっと一息ついています。
数日感、腰が痛いので、腰をかばいながら、亀のようにゆっくり動いたからでしょうか、肩や首がものすごくこっています。肩や首が腰に負担をかけまいと、何倍もの苦労をしてくれたようです。ありがたいです。
聖書は、「教会はキリストの体である」と教えます。
頭部分は、イエス・キリストです。その他の部分は、神に招かれ救いを受けた人々です。
聖書は、一人ひとりの自立は教えますが、個人主義は教えません。
腰が悪ければ、当然のように、肩や首がより多くの負担を負います。しかし、そこに文句なんてありませんし、当然のこととしてやります。
一つの体の部位が痛み、調子悪ければ、他の全身の器官がその一つの部分を支えます。
人間関係もこうであるべきだと思います。
私たちは、私たちを造られた神を頭とし、その他の体の部位の一肢体です。そこに優劣はありません。比較し、比べ合い、劣等感や優越感を感じるのは的外れです。
みんな違う。みんな素晴らしいのです。
私たちは、みんな同じ能力や才能や性格を持っていません。それは、互いに補完関係であるためです。
他の人の不得意な部分で私が得意であるならば、その部分を私が補います。私に不得意な部分は、他の得意な人が補います。
みんなが同じことをする必要はありません。
潰し合い、叩き合い、競争をし合うことをやめて、一つの体、一人の人のように歩んでいきたいですね。
私の腰を守るために、肩と首は筋肉痛になっています。しかし、腰が守られたために肩も首も喜んでいます。
そんな関係になるためにはどうしたらいいでしょうか?
私たち自身の頭が一つであるように、共に、一つの頭であるお方に結びつくことです。
『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』(エペソ1:23)
『確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。』(第一コリント12:14〜26)
『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(第一コリント12:27)
家族、友人、知人が仲良くし、助け合っていきましょう。
良い週末をお過ごし下さい。
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