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2015年12月24日21:52

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朝鮮人女性を従軍慰安婦とした

朝鮮人女性を従軍慰安婦とした

韓国側のいい分
『朝鮮中で集めた20万人の女性を性奴隷とした』
史上最悪の野獣である日帝は、朝鮮半島で暮らしていた可憐な乙女たちを次々に連れ去った!さらにあろうことか、彼女達を従軍慰安婦にして戦線に送り込み、日本軍の慰み者としたのである。従軍慰安婦とされた朝鮮人女性たちは、まともな賃金ももらえず、最悪の環境の性奴隷として扱われた。今なお、その傷は癒えていない。


【従軍慰安婦】神話は完全な虚構
◎朝鮮人の戦地売春婦は4000人
『従軍慰安婦』とは。戦後に作られた言葉(1973年出版の千田夏光『従軍慰安婦』で作られた造語)であるが、実際のところをいえば、普通の売春婦である。現在の言葉に直すなら『戦地売春婦』と呼ぶべきだろう。
現地の韓国では、故意に『挺身隊』と『従軍慰安婦』を混同させて『朝鮮人慰安婦20万人説』をぶち上げている。しかし『挺身隊』とは、1944年(昭和19年)8月の勅令第五一九号『女子挺身勤労令』に基づき、向上で働いていた女性行員のことであり、戦地売春婦とはまったく関係ない。
そもそも韓国側が主張するような『20万人の朝鮮人慰安婦』が現実にありうるのか?という疑問が生じる。 戦地売春婦全体の総数から考えると朝鮮人二十万人の日本人や中国人などの売春婦も加わるため、理屈では40万人以上の戦地売春婦が存在したことになるのだ。
この件について、戦地売春婦研究の第一人者である秦郁彦氏(法学博士。拓殖大学、千葉大学日本大学の教授を歴任)の著作『慰安婦の戦場の性』(新潮社)に詳しく書かれている。そこでは当時の戦地売春婦の一日あたりの接客数をコンドームの消耗率から計算しておおよそ十人程度と見積もっている。だかそれに対して『一日10人〜20人以上、20人〜30人以上の場合も少なくなかった』と根拠なく主張する者もいることを指摘したい。
そこで、仮に『朝鮮人慰安婦20万人説』を認め、なおかつ一日に20名の接客をしていたとして計算するとどうなるだろうか? 20万人の朝鮮人戦地慰安婦が一日に20人の客をとった場合、一日当たりの総接客数は400万人となる。戦地売春婦の人数を五万人と仮定した場合でも、一日あたりの総接客数は100万人だそうだ。そうなると当時の外地派遺軍(総数300万人)が一日に1〜3回、少なくても三日に一度は慰安婦所(売春宿)通いしなければならない計算になる。これでは日本軍は戦争もせずに何をしていたのか?というバカバカしい話しになってしまう。
秦郁彦氏は前載書の中で、戦地売春婦の一日あたりの接客数を10名程度とし、当時の戦地売春婦の総数を2万人前後とはじき出している。さらに、戦地売春婦の構成比率は、外務省『在外邦人職業別人口表』などの資料から、おおよそ日本人= 六:朝鮮人 に:中国人および現地人等 二と推定される。そこから計算すると、当時の戦地売春婦は4000人前後だったことになる。
『朝鮮人慰安婦30万人説』がいかに荒唐無稽かわかるであろう。また20万人の朝鮮人戦地売春婦がいたと韓国人達は主張するが、現在に至るまで『元戦地売春婦』を名のり出た者は韓国・北朝鮮を会わせても300名足らずである。このことからも20万人説は明らかに数字の膨張で『挺身隊』と混同されて数が膨れ上がったものであることが理解できる。
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慰安婦が20万人も存在したわけがない


◎陸軍大将より稼いでいた戦地売春婦もいた。
次に戦地売春婦たちは本当に性奴隷のような存在だったのかを考えてみよう。ここで一つ、参考に成る事例がある。文玉珠という元戦地売春婦が起こした、ビルマでの貯金の返還請求裁判だ。戦時中のビルマで戦地売春婦として働いていたとき、(1943〜1945年)、売春業で貯めた2万6145円を郵便貯金していいたが、戦後の混乱期に通帳を紛失してしまったと言う。
1965年に貯金が失効してしまうと、その返還を求めて1992年に裁判を起こしたのである。 ここで注目すべきは、その三年足らずで貯め込んだ2万6145円という貯金額。これを現在のレートにすると、約一億円値価格の巨額のお金になるというから驚きだ。ちなみに当時の陸軍大将の年収でさえ約6600円であるから、仮に三年間陸軍大将を勤めても、2万円を稼ぐことはできなかったのである。『戦地売春婦が性奴隷だった』と言うがどこの世界の奴隷が、使役する側より金を稼ぐことができるというのだろうか?
終戦直後の戦地売春婦たちの姿をうかがい知るデーターとした、北ビルマのミチナ慰安所を調査した米軍のリポートがある。それをみると『女性たちは、ブローカー(および経営者)が、300〜1000円の前借金を親に払って、その債務を慰安所での収入で返還している。経営者との収入配分比率は40〜60%、

女性たちの稼ぎは月に1000〜2000円、
兵士の月給は15〜25円。

慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模な家屋に宿泊』して営業を行ったとある。さらに『彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。慰安婦は接客を断る権利を認められていた』ほか『夫妻の弁済を終えた何人かの慰安婦は朝鮮に帰ることを許された』といった記載も見られる。また、小野田寛郎氏が『正論』(産經新聞者)の2005年一月号で発表した手記『私が見た従軍慰安婦の正体』でも、『当時漢口周辺には約33万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費。三分の一が郵便貯金、三分の一が『慰安所』への支出だった。貯金は給料のわずかな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるえなかったのが実情だった(中略)
ちなみに当時の給料は兵は一ヶ月平均一三円程度で、その三分の一を四円と計算すると33万人で総額132万円になる。』と、ほぼ米軍リポートと同じ内容が書かれている。
前述の『慰安婦と戦場の性』によれば、玉割(売春宿と売春婦の収入配分率。売春婦の取り分をパーセントで示す)が、内地では高くても40%だった時期に、戦地では50%が当たり前だった。さらに、沖縄などでは70%まで跳ね上がっていたとのことである。
これだけで見れば、内地と比べて戦地売春婦は五倍以上を稼いでいた。前借金で、売り飛ばされた者も数ヶ月で返済し、以降は貯金や親元への仕送りなどに収入を回している。
少なくても、日本に対して厳しい目をむけていた米軍リポートや実際にこの戦地売春婦たちの体験した小野田氏らの証言、あるいは秦郁彦氏のような研究者たちのレポートを読むかぎり、性奴隷とされた『慰安婦』の姿など、どこにも存在した様子はない。
むしろ商売人としてのプロ意識を供えた『戦地売春婦』の姿が、そこには見えて来るのである。
確かに、売春業によって生計を立てられなかった戦地売春婦たち境遇には、同情の年を禁じ得ない。そしてそれは、当時の日本でも同じであった。現在とは異なり売春が制度として肯定されていた時代には、農村の貧しい農家の娘が売り飛ばされる、といった貧困のための悲劇は、国を問わずどこにでもあったものだ。
むしろ、戦地売春婦として生計を立てられなければ、こうした【朝鮮人女性はもちろん、その家族ともども野垂れ死にしていた】であろうことは想像に難しくない。売春を望んで行う人間はいないだろうが、しかしまたその【売春によって得たお金で、彼女達自身、あるいはその家庭が救われた】こともまた事実ではないだろうか?
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【現在のお金で一億円以上稼いだ売春婦もいた】

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元従軍慰安婦に謝罪と賠償しろ

韓国の言い分
【元従軍慰安婦に謝罪も賠償もなく反省していない】
・元従軍慰安婦の可哀想な老婆達に謝罪しろ
・慰安所は日本軍によって経営されていた
・日本人や元従軍慰安婦の証言で、日本の罪は明らか

【真実】慰安婦 = 売春婦!
    そもそも謝罪も賠償も必要ない!!

戦地売春婦に謝罪する必要はない。
本来、戦地売春婦に関して謝罪するようなことは何もない。これまで述べて来た通り『慰安婦』とは実際には『戦地売春婦』であって、【金を受け取りセックス産業に従事することを、自ら決めた者】たちである(親に売り飛ばされた例も多々あるが)。これに対して、日本が国家として謝罪も賠償もする必要がないのだ。
確かに、戦地売春婦に関して、1993年に、当時官房長長官であった河野洋平氏が談話を発表している。それは戦地売春婦の強制性を認め、政府として謝罪したものだった。しかし1997年3月12日の参議院予算委員会で、平林博内閣外政審議室長(当時)は、『政府が発見した資料の中には、強制連行を直接示す記載は見当たらなかった』と答弁している。後に河野氏は新聞の取材で、『政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を駆り出したと分子用があったかといえば、そういうことを示す文章はなかった』けれども、本人の意志に反して集められたことを強制と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明らかだ(朝日新聞

1997年3月31日付)と発言している。このように河野談話が客観的証拠によるものではなく、【個人の主観的感想の元に出されたもの】だと認めている。
またこの件に関して、朝鮮人の元売春婦などが訴えていた『太平洋戦争犠牲者遺族会の戦後補償請求起訴』に対し、2004年11月29日の最高裁判決で原告敗訴が確定しており、【日本政府に賠償の義務が存在しない】ことが確認されている。    
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【強制連行の存在を示す証拠はどこにもなかった】



誰が軍用売春宿を経営したのか?
ここで問題になるのは、これらの戦地売春婦を『どのように集めたのか?』そして『どのように扱ったのか?』という二点に尽きる。後者については、

『朝鮮人女性を従軍慰安婦とした』
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1778748378&owner_id=16802230)

で詳しく述べているので、ここでは前者の『どのように集めたのか?』という点、つまり戦地売春婦を強制連行したとする主張が、本当に正しいのかどうかを明らかにしよう。
最初の軍用売春宿(慰安所)が上海で設置された(約二ヶ月で閉鎖)とされる。1932年まで、売春業は民間によるものであった。
民間売春業者は海外まで進出しており、これがいわゆる娘子軍(からゆきさん)と呼ばれた売春婦たちである。それまで海外の日本軍兵士達は、こうした民間の売春宿を利用していた。だが地理的問題や花柳病(性病)の蔓延により、衛生管理の行き届いた軍用売春宿が必要とされるようになる。上海事変以降、日本軍の進出に伴い、『性病防止』『強制防止』などの目的から、軍用売春宿の設置が行われたのである。売春宿の経営自体は民間業者の娘子軍などが主となって軍用売春宿の売春婦となったが、一部朝鮮人や中国人、現地人からも売春婦が募集されている。

このとき、朝鮮半島からの募集に関して、女衒(ぜげん)と呼ばれる仲介業者が詐欺まがいに売春婦を連れて来た例が報告されている。さかさこの【仲介業者のほとんどが朝鮮人】であった(1941年の総監府調査では、仲介業者3955人のうち、3744人)。韓国の挺対協の調査でも、戦地売春婦の来歴調査では多くの元売春婦が『親に売り飛ばされた』『近所の朝鮮人に騙された』と証言している。 強制連行を主張していた吉見義明氏(中央大学教授)も、テレビ朝日の『朝まで生テレビ』(1997年1月3日放送)で、『強制連行の証拠がない』ことを認めており、現在は『広義の強制連行』なる摩訶不思議な造語で、この問題を提起しているようだ。このように、売春宿自体は民間の経営で成り立っており、募集も民間より行われていた。軍に夜強制連行など存在しなかったのだ。ではなぜ戦地売春婦=強制連行と語られるようになったのか。そこには、ある反日日本人による嘘本(フィクション)の存在があったのである。
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軍用売春宿の経営も募集も、民間人がおこなっていた。

日本の嘘つきと韓国の嘘つき
吉田清治『私の戦争犯罪 −朝鮮人強制連行−』(三一書房)という本がある。1983年に刊行されたこの本は、1943年に済州島で現地の女性たちを強制連行し、一週間で205人の女性を『慰安婦』にしたという体験談をまとめたものとされるものだ。この本は発売当時から話題を呼んだ。『従軍慰安婦』という言葉が一般に広まったのも同書がきっかけとされている。 しかし、この済州島での強制連行事件は本当に起きたのであろうか?同書は韓国でも1989年に翻訳出版され大反響を呼んだが、この本の真偽について、同年8月14日に『済州新聞』の許栄善記者が、署名記事でその調査報告を行っている。 それによると、『この本に記載されている城山浦の貝ボタン工場だ、一五〜一六人を強制微用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話しを裏付け証言する人はほとんどいない。島民たちはデタラメだと一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦のチョン・オクタン八五歳の女性)は『250余の家しかないこの村で15人も微用したら大事件であるが、当時はそんな時事はなかった』と語った。郷土史家の金奉玉は『1983年に日本語版がでてから何年かの間追跡調査した結果、事実ではないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる』
と憤慨している』と述べられている。慰安婦狩りが行われたとされる現地の新聞社が、同書の記述を否定しているのだ。 のちに吉田清治自身、この【慰安婦狩りの話が嘘であったことを認めている】が、一度広まった話しは嘘であったとわかっても止まることはなかった。

今でもこの嘘話を元に、戦地売春婦の強制連行神話が語られることがある。金儲けのためについた嘘が残した影響は、あまりにも大きいと言わざる得ない。
また、日本人に強制連行されたと主張する元戦地売春婦の証言も、黄錦周のように17歳・18歳・19歳のそれぞれで連行されたと主張したり、その経緯が証言のたびに違う内容になったりと、【証言と呼ぶには値しない戯れ言ばかり】である。
山田盟子『女性たちの太平洋戦争』(朝日新聞社)で紹介された戦地売春婦の証言では『日本軍のクリスマス休暇には一日数十人の相手をさせられました。今でもクリスマスが近づくとあの地獄の瞬間瞬間を思い出します。』というものもある。

『鬼畜米英』と唱えていた時代の日本軍に、クリスマス休暇があったというのか?
韓国ソウル大学の安乗直教授が行った調査でも、時代背景があわなかったり、証言自体の信憑性が得られないものが半数以上であった。
『強制連行された』と主張したのは四人だけで、そのうち二人が連行されたという『釜山慰安所、富山慰安所』については、その後の調査で素材しなかったことが確認されている。残りの二人(文玉珠と金学順)も、『親に売り飛ばされた』と証言。結局、慰安婦として強制連行されたと訴えた四件【すべての例が虚偽だった】ということであり、韓国人自身の調査でも強制連行を証明できなかったのだ。
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【吉田清治の証言した『強制連行』自体が捏造だった】
(嫌韓流反日妄言撃退マニュアルより抜粋)


【1】朝鮮人女性を従軍慰安婦とした
   http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1778748378&owner_id=16802230


【資料】従軍慰安婦と挺身隊の混同について
   http://www37.tok2.com/home/koreanworld/ammo/ianfu_teishintai.html

【日本の戦争謝罪発言一覧】
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争謝罪発言一覧

【日本外務省 歴史問題Q&A】
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/index.html

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また、この事に詳しい方に聞いた話しでは、『従軍慰安婦を軍が丸抱えで行われたという証拠はない、ということはいろんな証言があり、ー元TBS記者でジャーナリスト、作家である井沢元彦氏の証言を取り上げたいと
思います。 まず1つ目は、1965年に締結された日韓基本条約では、その問題は取り上げられてはいませんでしたし、仮にもし従軍慰安婦が公然と行われたとすれば、その当時から大騒ぎになっているはずです。(実際、韓国側からは賠償金の請求はなされませんでした)

2つ目は、日本軍は予算の申請や任務の遂行、兵器や物資の調達等、どんな場合でもハンコや文書が必要であり、それらがなければ任務の遂行ができなかったという事実です。つまり、もし従軍慰安婦制度が軍の丸抱えでなされていたのであれば、その予算や起案書、復命書などの文書が残っているはずです。
ところが、1945年8月9日にソ連が満州に侵攻したときに、急だったため、日本軍が文書を焼き捨てる余裕がなく、文書を残して慌てて逃げたようです。ところが中国側からも、旧ソ連側からもそういうことを示す文書が出たという証言は一切ありません。 つまり、文書が大量に残っていることは、それだけソ連軍が急に侵攻した証拠であり、中国残留孤児の問題ここ
から来ています。

第三にこれは渡部昇一氏が本の中で書いているのですが、その中で、戦時中の朝日新聞の中に従軍慰安関係の事業を営んでいる朝鮮人経営者が、従軍慰安婦募集の広告を出しており、ある一定期間働いたら高額の給与を出すとの触れ込みをだしていたとありました。

実際ある従軍慰安婦とされる人は、従軍慰安婦として一定期間働いたため、自分の故郷に家を建てることができたのだそうです。つまり、彼女たちは自分で志願してこの仕事に従事したのであり、軍に強制されて仕事をさせられたわけではありません。

たしかに、軍の士気の低下で個別に暴行を働いた兵士はいたかもしれません。でも実際軍の文書の中では、占領地の住民に乱暴を働いたり、婦女暴行をしてならないという文書の通達も出ていることから、軍としては勧めていないことがそれからも明らかです。


韓国で「慰安婦は自発的な売春婦」署名運動・・・「虚偽だ」波紋広げる
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=97&from=diary&id=2843610
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