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2015年12月23日22:12

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鎌倉VS山梨3

 源平の合戦で、甲斐源氏は源氏の中でも有力な勢力でした。水鳥が飛び立つ音で平家が逃亡をしてしまった富士川の合戦では実質的に甲斐源氏が単独で勝利をおさめました。甲斐源氏は一つのリーダの元にまとまっているのではなく、数人のリーダがいました。

 武田信義、信義の弟、安田義定、信義の長男、一条忠頼、次男、板垣兼信、三男、武田有義、末っ子、信光が主な武将です。

 富士川の合戦で勝利をおさめた源氏は、武田信義が駿河を支配下におさめ、安田義定が遠江の守護となり、勢力を拡大させていった。その後しばらくの間、源頼朝、木曽義仲と並んで源氏の棟梁となった。安田義定が木曽義仲と同盟を組んで東海道から平家を破って上洛をした。

 しかし頼朝が木曽義仲と対決の意志を固めると、甲斐源氏の武将も頼朝とともに戦うことを決意をした。源範頼軍のもと、木曽義仲掃討戦で一条忠頼は粟津の戦いで木曽義仲を討ち取った。
 
 さらに一の谷の合戦では安田義定は義経と行動を共にして、平家側の武将、平経正、平師盛、平教経を討ち取った。このように甲斐源氏は源平の合戦において源氏の勝利に大いに貢献をしたのです。

 しかし頼朝にとって同格の甲斐源氏が目障りな存在となっており、甲斐源氏が一枚岩になりきれないのにつけ込んで粛清を行った。

 まず後白河法皇が頼朝追討の命令を武田信義に出したという噂が流れると、信義を鎌倉に呼び出し、駿河守を解任をして、さらに頼朝にずっと逆らわないという誓いをさせられた。
 
 そして頼朝は一条忠頼を鎌倉の宴会の席に招いて、刺客に暗殺させた。一条忠頼は父親に代わって実質上、駿河を支配下におさめていたので、頼朝は駿河の支配権も奪った。
 
 同じく甲斐源氏の板垣兼信は、備前での戦いで手柄をあげたにもかかわらず、甲斐源氏としての立場を前面に出すようになったために頼朝から警戒されてしまい、隠岐へ流された。
 
 安田義定の息子、義資が院の女房に艶書を送った罪により斬られ、義定も所領を没収された。翌年、謀反の疑いをかけられて、打ち首にされた。

 こうして甲斐源氏の跡目を継いだのは5男の信光であり、石和に本拠地を構え、石和五郎と呼ばれた。

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