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2015年12月23日10:37

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天皇制は必要なのか?この問いにぶつかると、多くの日本人民の脳みそは非合理な思考停止状態となる。問答無用状態に。

■<天皇陛下>82歳に 戦後70年「先の戦争を考えた1年」
2015年12月23日 09:14 毎日新聞
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3773393

●【天皇制は必要なのか?この問いにぶつかると、多くの日本人民の脳みそは非合理な思考停止状態となる。問答無用状態に。】

天皇制があるために、有史以来、日本国人民は思考が奴隷化している。

もし、戦後の日本国憲法に天皇制がなければ、日米軍事条約など吉田茂が締結を昭和天皇に命じられて白紙委任状の日米軍事条約にサインすることなどなかった。

昭和天皇の憲法破りは目に余るものがあったが、誰も問題化しなかった。


日本国憲法の主権在民【人民主権】も、天皇制があるがために、真正面から主権在民を考える能力を剥奪されている。

古代天皇制が日本人民に与えたトラウマ、それは、現代にまで日本人民を束縛している。

非合理な権力の象徴として、あらゆる非合理な問題は、最後は、天皇制の非合理に行きつく。
非合理の象徴が天皇制だ。
理由も無く無条件に、「天体のように天皇制は初めからそこにある、問答無用の非合理だ」で、終わる。そして、あらゆる非合理の、総本山となっている。

なぜ、天皇制が必要なのか?天皇制を支持するひとびとは合理的な説明など誰もできない。非合理な天皇制があることで、
憲法9条がありながら戦力を持つ、陸海空の戦力をもつことを、合憲にする非合理も、その非合理色がぼかされ、

銀行資本という最大の福島第一原発事故の責任者も、ぬくぬくと、東電温存とともにメディアに問題もされずに、儲けをそのまま継続することで高笑いをつづけている。政府が無尽蔵に金を突っ込んで銀行資本に損をさせるどころか儲け継続。

原発事故がありながら、トイレのないマンションでありながら、原発続行という非合理も、非合理なんて問題じゃないとぼかされ、ポカンと非合理に口を開けて政府に従う国民。

放射性廃棄物のゴミを、毎日たべさせられても、そんな非合理にボケ、日本国憲法9条をもちながら、戦争法を可決されても、革命権の行使もしないでいるこの非合理。

あらゆる非合理は、天皇制の非合理を頂点として、なにかあれば人間の壁が飛び出し、この御紋が目に入らぬかと、人間の壁で非合理を押し通す。メディアも、インテイリゲンチャもすべてだまる。

天皇制こそは、日本国人民から合理的判断力を奪う最大の要素だ。

象徴+天皇制 というのは、水と油をくっつけているようなものだ。反ナチス+ナチスをくっつけているようなものだ。鵺(ぬえ)の世界だ。非合理極まりない。

山本太郎の天皇への請願など、まったく、この非合理を認識できない日本国人民の多くの脳みそを象徴している。【象徴非合理国民制】だ。


天皇制は如何にして、日本国人民を今に至るまで束縛し、その脳みそを縛りつけているか、鹿と日本国人民はかみしめてみる必要がある。


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【1】【●天皇制の歴史と日本人奴隷の歴史:それでも、天皇制を支持するか?】

基礎知識
第15-856 天皇政府による天皇制奴隷制は、人民逃亡で、崩壊した
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-5684.html

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ヘイトスピーチは天皇制に直結している面がある。それを見てみよう。

人種を憎んだり蔑んだりする現象は、もし、アングロサクソンに黒人の血が混じっていたら黒人を蔑視できない。

もし、日本人の自分の父母に朝鮮人や中国人の血が混じっていたら朝鮮人や中国人を普通は蔑視はできない。自分の血を憎んでヘイトスピーチをするという現象がなかにはあっても例外だ。

大昔、原始氏族社会というのがあった。同じ血統の人々で作られた社会だ。
原始的平等を本質としたもの。
生活の基本単位が氏族である社会。家族や国家が成立する以前の原始共産制の社会とされる。


日本では、原始氏族社会が<根本的に破壊>されることはなかった。

歴史的に氏族の塊りが氏族を玉突き現象で日本から海外に追い出すとか、追い出された氏族が海賊となってまた乗り込んできて玉突き現象で氏族を追い出すとか、そうしながら交配するとか、そういう形で氏族社会が清掃されることはなかった。

しかし、ヨーロッパは違う。氏族社会が清掃された。スコットランド人だとか言っても、スコットランドにたどり着くまでに、雑多な人種の交配が起こっている。
玉突き状態で、人種が人種を追い出して、己の人種も追い出されて、あるいは己の種族がよその地に人種を追い出して、あるいは人種は掠奪され、氏族社会などというのは、ーロッパでは根本的に清掃されてしまった。

<参考:
・ヨーロッパの古代は氏族社会が完全に清掃された。
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/07/001294.html
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=245353
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=245315
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=245320)>

日本は特殊だ。

原始氏族社会は、まるでその外皮は維持したまま、次なる社会「古代奴隷社会」 へ変わっていった。
原始氏族社会は生産力の発達につれて崩壊し、少数の支配者が人民の多数を奴隷として所有し使役する古代奴隷社会へと変化したが、日本の場合は特殊だ。


古代ギリシア:全人口の9割内外が奴隷。

古代日本:全人口の1割内外が奴隷。

日本の方が随分自由人が多そうだが、そんなことはない。ここに天皇制がかかわっている。

古代奴隷社会は少数の支配者が人民の多数を奴隷として所有し使役する社会。

魏志倭人伝によれば、紀元前1世紀ころから人民の多数が少数の支配者によって所有され使役されるに至った。

日本のこの一割の奴隷は、
きわめて少数の特権的支配者の手に集中的に所有されていた。

全国民の生産または富の程度ははなはだ低く貧しかったかったけれど
低い<全国民の生産>であるのに、少数の特権階級の手に高度に集中していた。

少数の特権階級、天皇、その周辺の貴族、または豪族に、大量に数十、数百、数千人というように集中していたという。

一割の奴隷は無論、古代日本天皇制の下で、所有さてたが、残りの日本人民の大多数も、実質的には奴隷として、または、奴隷に近い状態において、部民として世襲的に支配されていた。

天皇制の下で、階級制度に日本人民はくみこまれた。氏姓制度だ。

血縁集団としての同族のなかの特定の者が、臣、 連、伴造、国造、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を与えられ、その支配下で日本人民の大多数は、実質的に奴隷として、または、奴隷に近い状態において、部民として世襲的に支配されていた。

一割の奴隷は実質的には一割ではなく、古代の天皇制の下でほとんどの日本人民は奴隷だった。


日本では氏族社会という血のつながりの社会がヨーロッパのように清掃されることなく、氏族社会の外皮を残したまま、日本では、階級制度である氏族制度になっていった。
天皇を頂点とする支配の中で奴隷として組み込まれていった。


ヘイトスピーチにもいろいろあるだろう。富めるものが貧しいものをヘイトスピーチしたり宗教の違いが原因であったり。

ただ、人種の違いでヘイトスピーチするというのは、氏族社会が完全清掃されたヨーロッパと氏族社会が残存し続けている日本では、異質な面があると思う。

もし極東においても、アジア人同士で、ヨーロッパのように玉突き現象で人種の移動や交配が起こっていたら、現在の中国人、朝鮮人、日本人の間の蔑視合戦はその姿を変えていただろうと思う。

さて、日本人の特殊性は、なにか。

天皇制の下での階級制度に組み込まれた日本人という天皇の奴隷が、上下の階層にがんじがらめにされ、一面では同じ奴隷の身でありながら、階級の上位の奴隷が、階級の下位の奴隷に支配的になるという構図となっている。ここに天皇制の下での独特のヘイトスピーチが発生する。

それは、氏族社会が清掃されなかったことによる 氏族 vs 氏族 のヘイトスピーチ、血と血の間のヘイトスピーチとはまた別の、
同じ奴隷の身でありながら、階級間で上位階級が下位の階級を、支配し、ヘイトスピーチするという、残虐極まりない関係を生み出している。天皇制の下での支配関係が悪しき力を注入している。

もし日本に天皇制支配の下での古代奴隷社会がなかったなら、自由な市民と奴隷というギリシアのような関係なら、奴隷の解放ははるかにすっきりした形で進んだだろう。

現在の日本人民の精神構造を、天皇制というものの及ぼしている悪しき影響を抜きにしては語れない。

●マッカーサーが日本を統治しやすいようにするため憲法に象徴天皇制を残した。
憲法に象徴天皇制があるからというただその事実だけで思考を停止し、天皇制を無批判に受け入れることは、日本人の思考力を止めてしまう。

君が代日の丸を無批判に歌う脳みそでは、あなたはいまだに古代奴隷制の奴隷の脳みそを引きずっている。

それでは、人間解放を実現した市民になれない。

ヘイトスピーチを退治できない。屈折した支配構造の中の人間が、屈折した支配関係の毒のエネルギーを再生産し続ける。

ヘイトスピーチの毒のエネルギーを法律で封じ込めることはできない。

海に流れ込む川の水を、どんな大きなダムでせきとめようとも、川の水の実力を防ぐことはできない。

そのような法律は、必ず、人間の基本的人権を弾圧することに、権力によって利用される。ろくなことにはならない。

基本的人権の弾圧社会を、基本的人権を守る社会に作り変えることだ。これしかない。


●日本国憲法を唾棄する安倍晋三首相は、憲法99条に違反しているかどで、安倍晋三首相は、公務員の資格がない。自民党も自民党の衛星党も憲法99条に違反しているかどで、公務員の資格はない。

こんな公務員の資格のないもの等がこの国の政権を担当し、三権を掌握している。

日本人民は、なぜ、この事実を変えようとしないのか。

公務員の資格のない公務員を辞めさせず、憲法を読み替えるなどというのは本末転倒だ。

いい加減、古代の天皇制の下での奴隷制支配の呪縛から己を解き放し、非合理な実態を直視し、だめなものはだめと主張し、作り変える覚悟を持たねばならない。

日本人の脳みそはいまだに、古代の天皇制の下での奴隷制支配の呪縛から抜け出していない。
外皮としてくっついている。

己の認識の力でそのカスをはぎ取らねばならない。



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【2】【●天皇制とは何か。】

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【羽仁五郎著「都市の論理」(勁草書房)1968年12月25日発行】 より

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天皇制の問題


日本には暴力団というものが、いまだに、また最近活発に、活動しているのですが、ヨオロッパ(※リーフ注:Europeヨーロッパ。ヨオロッパは発音に近づけた表記。以下同じ。)には日本ほど暴力団というものはないのです。しかし、ルネサンス時代に全く暴力団というものがなくなってしまったイタリアでも、ムッソリイニ(※リーフ注:【Benito Mussolini】ムッソリーニ)がまた暴力団を作ったので、いつどんな時でもおこり得るものではありますが、しかし、いずれにせよヨオロッパではルネサンスの自由都市共和政が暴力団というものを全く解決したのです。これは暴力団ばかりではなく、ハンセン氏病をも絶滅した事実など、その他いろいろなことと関連しているのですが、その暴力団というものがなぜ発生するかということも、一番端的に本質的な原因は、権力が暴力的である場合には必ず暴力団が発生するということです。権力が市民的権力になっていない場合、警察が市民警察になっていない場合、警察は必ず暴力警察なのです。そして、必ず暴力団と結びつくのです。今の日本では政治家はもちろん、丸山真男君も、暴力団をどうしてなくすことができるかということに、はっきりした見とおしをもっていないのではないでしょうか。困ったものだ、とかいうことは、誰でも言えるのです。しかし、実際に暴力団によって身辺の危険を感ずる人間にとっては、なんとかしてこれは根絶しなければならないのです。日本では、われわれが――みなさんにしてもそうですが、自分が主張することを持っていない人はいないでしょうが、それこそ一寸の虫にも五分の魂で、主張のない人間はいないのですが、しかし、ある程度まで主張していくと、それが事実として暴力団にぶつかるのです。暴力団というのは非合理な強い力です。それがいわゆる“人間の壁”となって、その前ですべての人が自分を失ってしまうのです。これは日本では特に強い。ドイツはヒットラア(※リーフ注:アドルフ・ヒットラー(独: Adolf Hitler)。ヒトラー、ヒットレルとも表記される)の時代にそういう状態におちいり、イタリアではムッソリイニの時代にそういう状態に陥ったのです。また現在イタリアになり、ことに西ドイツにはおなじような状態が復活しています。日本はその中でももっともそういう傾向の復活の兆しが強いのですが、これはよほど徹底的に考える必要がある。暴力団はどういう場合に発生するか、どういう方法によって根絶されたか、というと、現に、近代の自由都市共和制において、市民的の権力が成立した場合には暴力団は根絶された。その市民は、その市に住むことと、税金を納めることと、それから腕力を揮わないこということ、この三つの条件を要求されたていたので、腕力を揮うものは市民の資格はなかったのです。
 この近代都市の市民が腕力的権力を根絶したということは、ヨオロッパの夫が妻を殴らなくなったということと関連し、日本の夫がいまだに妻に対して腕力権を行使するとすれば、それは日本においてはいまだに暴力的権力が根絶していない事実と関連がないともいえないでしょう。
 暴力団がどういう場合に発生したか。中世の封建時代には暴力団の必要はないので、権力そのものが全く暴力的なのですから、封建君主の権力というのは暴力そのものです。いわゆる経済外的強制がその基礎です。労働を強制して賃金を支払わない。つまり支払わざる労働のほうが農奴労働の主体なのですからわずかに農奴が生産労働をつづけるためだけのものが与えられるにすぎない。中世の権力というものは、権力そのものが暴力的なのです。したがって、近代自由都市において封建権力が駆逐されると同時に、権力が、暴力的な権力でない市民的な平等の権力、平和な権力になってくる。それと同時に暴力が禁止されるのです。
 ところが、その後にこの自由都市共和制がくつがえされて、絶対君主制が成立したと同時に、暴力団の組織が現れてくるのです。また同じような状況がくり返されるたびに暴力団が現れて来るだけではなしに、政治上の決定的な条件になって来る。やくざの問題などでも、いまだに日本のやくざというのはテレヴィ(※リーフ注:televisionテレビ、テレビジョン)の主題です。よろめきとやくざとが現在の日本のテレヴィの二大主題と言ってもいいでしょう。これは両方とも関係があるのですね。それは、平等の夫婦生活の存在しないところに、よろめきが発生し、平等の権力がないところに、暴力団が発生する。平等のない日本のテレヴィは、毎日、午後のひとときはよろめき、奥さんたちがあれを見て、夕方からは暴力団、旦那がそれを見ている。そして日本のテレヴィ評論家は、そういう全体的なテレヴィの傾向について評論することができないらしい。どうしてもよろめきと暴力団とこの二つよりなにも深刻な問題ではないのです。要するに、警察が権力的であり暴力的なのです。それから、非合理な権力、というのは、天皇制がもっとも非合理な権力です。天皇制が日本国民統合の象徴だというのは表面であって、論理的に言えば、天皇制は日本における非合理な権力の象徴です。したがって、警察官はいつなんどきでも天皇の警察官となりうるのです。したがって暴力団はつねに天皇制の復活を主張する。いまでも、議会制度擁護国民同盟というのが大分この選挙でも東京で立候補していますが、あの演説を聞いたかたもあるでしょうが、第一は憲法改正です。第二は天皇制の復活、これがどうして議会制度擁護ということになるのか、実に非合理でしょう。これがそのさきに行くと問答無用となるのです。殴られてしまうのです。わかわなければ、わからせてやるというのです。選挙に大ぜい立候補するには相当金がかかるが、その金はどこから出て来るかというと、大体会社・銀行です。いま東京都においてもっとも大きな建築をしている銀行は、同時に暴力団に金を出している銀行なのです。
 現在の日本の政府の与党である自由民主党と暴力団の関係は、その議員のなかに暴力団の直接の関係者がいること、暴力団に花輪をおくる自民党議員がたえないことなどばかりでなく。両者の活動資金が、その金額の大小の差などはあっても、同じところから出ていること、すなわち、それが日本の独占資本(※リーフ注:銀行資本と産業資本の癒着した資本。金融資本。)の系統にむすばれていることは、最近ではほとんど周知の事実となってきた。そして、暴力団が天皇制のほかに現在ではいわゆる日米安保体制すなわち日本を軍事的にアメリカの支配の下におく体制を主張しているのは、日本の暴力団の愛国主義としては矛盾しているが、これもそれらを背後から動かしている日本の独占資本とアメリカの独占資本との結合の矛盾をあらわしている。最近広島を中心として中国新聞が暴力団とたたかった事実をえがいたというドラマが現在の日本のテレヴィの低調のなかでいくぶん注目された。そこにこれらの背後の関係がえがかれることができなかったのも、日本のテレヴィや新聞などがまたおなじこれらの背後の関係によって支配されているからであろうが、そのために、この連続ドラマにおいても暴力団の根絶の方向がはっきりしないばかりか、実はドラマにもなっていないのです。オブキュスランティズム【※リーフ注:obscurantism 曖昧主義。 辞書的には<1.反啓蒙主義,開化反対><2. 故意にあいまいにする主義>】はドラマツルギイ【リーフ注:辞書的には < ドイツ語 Dramaturgie>。<英語dramaturgy>。<1.劇製作術[法]><2. (脚本・劇の)上演[演出]法>】にはならないのです。これらの関係のために、日本のドラマそのものも発展しない、また映画も発展しない。
 ぼくはこの研究会【リーフ注:精神神経学会(1966)における地域精神医学の分科会での羽仁五郎氏の特別講演「日本におけるコンミュニティ(リーフ注:コミュニティ)の概念について」があり、そこで「コンミュニティ」や「地域」という概念が流行語となっているが、その概念が正しくないことを羽仁五郎氏が指摘した。その学会での講演の続きを聴こうということで発足した研究会】の第一回か第二回に、家族からの解放によってコンミュニティが成立し、都市が成立する、家族ファミリアということばはもとは奴隷ということであったという話をしましたが、そのことを左幸子君が聞いて、その講演はぜひ聞きたかった。自分はホウムドラマ(リーフ注:ホームドラマ)というものをやらされるたびに、これは一体なんだろうと、いくら考えてもはっきりしない、したがって演技が決まらない、じつに困っているのだが、このファミリアということばは奴隷ということだと聞いて、非常にはっきりした。ホウムドラマというものをどういうふうに解釈すべきかということについて、急所がわかってきたような気がする、“またその問題を扱うか”、というので、ぼくは、そんな問題ばかり毎回やっているわけにはいかない、といいましたが、この暴力団の問題、やくざの問題、非行少年の問題、これは日本ばかりではない、アメリカでも最近は日本以上にひどくなって来ているようですが、それらを歴史的に考えてみることによって、その本質的な問題がはっきりして来るところもあるのです。
 そういう暴力から全く解放されない都市に、また暴力が発生して来る。この都市が崩れていく。それはもうすこし詳しく考えて行く必要があると思うのです。
*−−−−−引用終了−−−−−−−−*



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