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2015年12月23日00:18

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鎌倉VS山梨2

↓の続きです

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 足利持氏軍によって武田信長が鎌倉に連行され、囚われの身となっている間、逸見氏に代わって信濃の守護大名小笠原氏から派遣された跡部明海が名目上の守護、信長の息子、千代丸を傀儡として欲しいままに政を行った。

 これが気に食わない信長は軟禁状態であった鎌倉を抜け出して甲斐へ入国。自ら兵を募り、甲斐の二大国人集団の日一揆を味方につけ、一方跡部はもう一つの輪宝一揆で味方につけ、両者、荒川で決戦。この戦いで伊豆千代丸は戦死、信長は駿河を経由して京都に亡命をした。これにより名実ともに甲斐に守護大名はいなくなった。


 当時、幕府の将軍は6代、足利義教、彼は鎌倉公方、足利義持とは犬猿の仲です。足利義持は自分も足利尊氏の子孫であり、僧籍に入った義教をなぜわざわざ呼び戻したんだ、俺がいるじゃないかと不満がたまった。だから将軍のやることなすことが気に入らなくて、一々盾突く。

 怒りを爆発させた足利義教は鎌倉討伐を命じ、箱根湯本の戦いで鎌倉軍を破ってしまい、持氏は切腹、これで鎌倉公方は一時、滅亡。しかし持氏の息子3人は結城氏朝&氏持親子の元へ逃げ込み、結城親子は幕府と戦った。この結城合戦に信長が参戦をし、見事手柄を立て、今の神奈川県西部を与えられた。

 これにて一件落着というわけではなく、彼を庇護してくれた将軍義教が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されると、折角頂いた領地も上杉氏に奪われてしまった。甲斐に戻ろうにもその時には兄の信重が守護として復権していたので戻れない。しかたなく。持氏の末っ子の成氏につかえることと相成った。古河公方足利成氏の命で上総を攻めて、領土を接収。成氏に上総の守護に命ぜられた。今の木更津市の真里谷と長南町の長南城を築き、80歳で死亡。子孫は真里谷氏を名乗り、戦国大名化としていった。
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