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2015年12月11日19:25

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「あかつき」金星軌道投入に成功!初の観測画像も公開 JAXA

■「あかつき」金星軌道投入に成功!初の観測画像も公開 JAXA
(ハザードラボ - 12月09日 18:41)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=187&from=diary&id=3752008

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5年前に打ち上げられた金星探査機「あかつき」が、今月7日に再挑戦した金星の周回軌道への投入に成功したと宇宙航空研究開発機構(JAXA)が9日午後発表した。国産の探査機が惑星の周回軌道に入るのは初めての快挙で、初めて観測した金星画像も公開された。
 「あかつき」は、地球と大きさが変わらず、太陽から受ける熱もほぼ同じ金星と、気象条件が異なる原因を調べるために2010年5月に打ち上げられた。当初はその年の12月に金星の周回軌道に入る予定だったが、メインエンジンの故障で失敗。
 JAXAは今月7日、姿勢制御用の4台のサブエンジンを使って、5年ぶりに軌道投入に再挑戦した。今回、投入した軌道は、当初の予定と比べて極端に細長い楕円形をしていて、金星を13日14時間かけて1周している。
 JAXAの「あかつき」プロジェクトチームは、9日午後6時から記者会見を行った。プロジェクトマネージャーの中村正人さんによると、軌道修正後のあかつきの機体は正常で、現在は金星から最も近い距離で約400キロ、最も遠い距離で約44万キロの楕円軌道を航行している。
 記者会見では、軌道に入った直後の「あかつき」が、金星を振り返りながら撮影した初めての観測画像も公開された。
 チームは、金星の上空約72000キロから撮影した画像を示して「最初に画像を見たときは驚きのあまり雄たけびをあげた。金星を取り巻く二酸化硫黄でできた硫酸雲がとらえられ、その帯状の構造から温度分布まで推測できる世界でも初めての画像だ」とコメント。
 さらに「観測画像を見て心の底から金星に到着したという実感がわいた。ミッションの遂行を見守ることなく、不慮の事故で亡くなった軌道設計者やこれまで応援してくれた皆さんに感謝したい」と述べた。
 「あかつき」は来年3月までは観測機器の調整などを重ねて試験観測を行い、来年4月以降、本格的な観測体制に入る。
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これについて失敗に対するスタンスとして別の観点からの意見があった。

『日本の技術開発のサクセス物語は、明治維新から一貫して貧しさが際立つ。乏しい資源をいかに創意工夫で補い、一点突破で成果を上げるか、という物語。今回のあかつき、はやぶさ2、はやぶさ1、H2ロケットも。MRJも。遡ると零戦、大和も。プロジェクトX的な逆転劇狙いしか選択肢がないのが悲劇。』

『だって、あかつき、本来ならメインエンジン壊れた時点で計画失敗なのを、無理に姿勢制御エンジンを長時間ふかして突入する作戦でしょう。技術的に無理なことを敢えてやる、それは本当に正しい選択か? 無理押しする傾向が、戦争中には特攻につながり、いまは原発再稼働につながっていると思う。』

もちろん、貧乏だから工夫しなければならない。工夫の中には、ちょっと危険な方法しかない場合もありうる。そういう所に対して、成功すればチャレンジともてはやし、失敗すれば税金の無駄だとか、無謀であることは最初から分かっていたと落としこむ。

そういう日本での短絡的な態度へのアンチテーゼとしてこれに反論するのは難しい。つまり、失敗しても再チャレンジする態度は、そのまま特攻してでも戦争を続ける態度と同じではないか。無駄と知りつつ公共事業を止められないのと同じ構造ではないか、という問いかけである。これに反論するのはなかなかに難しい。

つまり、あかつきに限定すれば、そのチャンレンジも、長い探求の日々も確かに学術として、研究として意味のあるものであった。これは成功したからではなく、仮に失敗しても研究者たちが培ったものには意味があるという点でだ。

しかし、失敗と分かりつつ、撤退も出来ず、ずるずると続けるものは、この社会において、如何に多いか。既に破綻しているにもかかわらず、破たんしていない風を装っている制度のなんと多いことか。

では撤退の研究こそが足りないと言えるのか。しかし、誰が正しい撤退というものを決められるのだろうか。

確か、毎日の記事だったと思うが、吉田所長のもとには、毎日、重要な報告も、些細な報告もすべて上がってきたので、彼を疲労さえ決断を鈍らせたというようなことを書いている人がいた。

しかし、あの時点で誰に重要かどうかを判断できたのか。自分が些細と思う報告が決戦の雌雄を決するほどの情報ではないと、なぜ言い切れるのか。そのような判断力を持つものがなぜ所長になっていないのか。

誰も未来など決められない。だから試してみなければ分からない。科学であれ、災害であれ、政策であれ。その中でどれを止めて、どれを継続するのか。事業仕分けでさえ、あれほどの混乱と短絡的な批判が起きたのである。

どれほど議論を重ねても両者の溝は埋まらなかったのである。ほとんど、サイコロを振って決めてもあまり変わらない結果ではないか。

と言うときに、このあかつきの流れがそのまま特攻に続くのではないか、という懸念はある意味で、考えなければならない問題であろう。そして、そこにたぶん答えはない。

あるとすれば、学問、研究は失敗の許容が大きいカテゴリーに属し、戦争は許容が小さいカテゴリーに属す、という違いしかないだろう。

失敗を認めなければ停滞しかない。失敗とはリトライする残り回数の事であり、それが0のとき、失敗と呼ぶ、リトライできる限りはそれは失敗ではない。Falseな結果でしかない。

そして特攻でさえ、もしあれで勝利できていたならば、正しい戦い方であったと評価されるだろう所が恐ろしいのである。未来への取り組みや決断を、過去が決定する。一度きりしかない決断を、一度きりの結果が決定する。だら、終わっていないならば、リトライできるはずである。

つまり、特攻でさえ、あそこで終わらなかった。戦争が終わり、新しい世界体勢の中で、リトライできた、という話がある。だが、もちろん、死んだ人たちはほぼ無意味であったとは言える。特に戦争の趨勢に対しては無意味であった。

ただし、その後の日本の色であったり、他国から見られる姿に対しては恐ろしいまでの修飾となっている。あの人たちが精いっぱい、操縦桿を引いてくれたおかげで戦後の日本は、そういう姿で見られることになったのである。

だからといって敗戦について良い評価をするなどあり得なくて、どう考えても軍部は無能と呼ぶべき人材であった。なぜ、彼らは無能として振る舞ったのか、こそが問題であって、彼らが無能であったは結論にならない。もし無能なら、何が無能か、なぜ無能があのような重要な地位を占めたのか。

そういう研究が圧倒的に不足しているから、あかつきの失敗でさえ、疑問を呈す人が出てくることになる。いや、違うんだ。これとあれは違うんだ、と言うべきか。そうだ、それは確かに同じだ。しかし、こうこうこういう理由で、別として考えても良いのだ、という辺りがまだカオス真っただ中にある。この国は。

失敗した、挑戦した、上手くいった。しかし、明日は分からない。だが分からないことを理由に、この一時の成功を喜んで悪いはずがない。少なくても手順を踏んで、こうすればこうなる、という事がその通りに起きた。

いずれにしろ、僕たちにはあかつきを放棄するのか、継続するのかを決断する立場にはなかった。ある意味、寝かせておいたのだろう。そこに、食らいついた研究員が光明を見出した時に、再起動したという感じだろう。

成功も失敗も彼らの手にある。もちろん、税金を払った分(250〜500円くらい?)くらいは、僕たちにも喜んだり落胆するくらいの権利はある主張してもそう悪い話ではあるまい。

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