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2015年12月10日22:02

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「マルコポーロは特攻隊だったんだ」−−戦後70年目の訃報

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今から20年前の1995年、マルコポーロ廃刊事件と言ふ事件が有った事を御記憶でしょうか?文藝春秋者が発行して居た月刊誌マルコポーロが、私(西岡昌紀)が同誌に書いた記事に対する国内外からの圧力によって廃刊に追ひ込まれた事件です。⇒ http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6696978.html



私が同誌に寄稿したその記事は、「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」と言ふ記事で、題名が語る通り、戦後永く信じられて来た「ナチのガス室」は、実は存在しなかったとする内容の記事です。細部には誤った記述も有りましたが、この結論ーー「ナチ『ガス室』は存在しなかった」に、私は、当時も今も、絶対の自信を持って居ます。第二次世界大戦中、ドイツがユダヤ人を差別。迫害した事は明白な史実です。しかし、そのドイツと言へども、戦後語られ続けて来た様に、(1)ユダヤ人をただユダヤ人であると言ふだけの理由で「絶滅」しようとした。(2)その「絶滅」の手段として処刑用ガス室を作り、ガス室で人々を殺した。とする主張は本当なのか?この二点に限っては何も証拠が無い事、そして、結論から言へば、今日、アウシュヴィッツで公開されて居る「処刑用ガス室」なる物は、戦後、ソ連かポーランドが捏造した物としか考えられない、と言ふのが、この記事における私の主張でした。この記事の掲載を切っ掛けに、内外から文藝春秋社に圧力がかかり、同誌は、記事の著者である私には連絡をしないまま、同誌を廃刊にしました。(この事件と、この記事で私が述べた首長の論拠は、事件から2年後の1997年に私が発表した「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」(日新報道・1997年)に詳細に述べてありますので、同書をお読み下さい。)


マルコポーロに掲載された私の記事は、こうした記事でしたが、東京に在る大宅壮一文庫が、同年(1995年)、戦後50年の年に当たって選んだ「戦後50年間の雑誌記事10選」において、、私のこの記事(「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」)を、戦後50年間に日本の雑誌に掲載された全ての記事10本のひとつに、第7位の記事として、選んでくれた事は、誇りを持って申しあげておきたいと思ひます。(第一位は、立花隆氏の「田中角栄・その金脈と人脈」(文藝春秋・1974年)でした、)



今年は、このマルコポーロ廃刊事件から20年目の年でした。



そのマルコポーロ廃刊事件について、語って来なかった逸話は沢山有るのですが、今日、ここで、そのひとつを書こうと思ひます。



マルコポーロが廃刊と成り、花田紀凱(はなだかずよし)同誌編集長が解任された直後の事です。東京千代田区の文藝春秋本社に、ひとりの作家が現はれました。その作家は、(禁酒して居たと聞いて居たのですが、)その日、大酒を飲み、顔を真っ赤にして、文藝春秋を訪れ、マルコポーロの編集者の一人に面会を求めました。



その編集者が喜んで面会すると、その作家は、真っ赤な顔で、こう言ったのだそうです。



「マルコポーロは特攻隊だったんだ」



つまり、マルコポーロが「ガス室神話」と言ふ戦後永く信じられて来た作り話に体当たり攻撃を決行し、自らを犠牲にして、この空母(「ガス室」)に大打撃を与えた、と言ふ意味です。



その作家は、野坂昭如(のさかあきゆき)氏です。



マルコポーロ廃刊事件が起きるまで、1年近くに渡って、私の問題提起に真剣に耳を傾け、この問題(「ナチのガス室」は本当に存在したのか?)を検討する為の研究会を立ち上げる為に援助をして下さったのが、野坂氏でした。



野坂氏は、私がワープロで書いたパンフレットを知人の言論人から入手し、「ナチのガス室」が、実は存在しなかったのではないかとする私の主張の論拠を知って、私に面会を求めて来られました。そして、その年の或る日、私は、初めて野坂氏にお会ひしました。






「虐殺をしたと言ふなら、その死体をどう処理したのか、を語るべきだ」と、初めて新宿のホテルで会った夜、野坂氏は言ひました。そして、餓死した自分の妹さんの事に触れ、「どのように殺したのか、どのように死体を処理したかをきちんと説明するべきだ」と強く言った事が忘れられません。「虐殺」と言ふような話を軽々しく語るな、と言ふ意味だったのだと思ひます。



その日の出会ひを切っ掛けにして、私は、野坂氏と度々お会ひする事と成りました。その過程で、私は、野坂氏の真剣さに、本当に圧倒される思ひがしました。




1994年の事でしたが、野坂氏は、本当に真剣に、私の意見を聴いて下さいました。そして、「ナチのガス室」は作り話だと確信した野坂氏は、私に、「『朝まで生テレビ』で自分(野坂氏)がこの事を言ってしまおうか」と言った事も有りました。生放送ならば、誰にも制止出来ない、と言ふ意味です。



その後、野坂氏は、研究会の為に場所を提供して下さり、マルコポーロに私の記事が掲載される以前の数ヶ月間、多くの助言をして下さいました。



その過程で、私は、野坂氏と何度も会ひ、「ホロコースト」の問題のみならず、実に色々な事を野坂氏と語り合ひました。神戸の空襲の事も、栄養不良で命を落とした妹さんのお話も聞きました。そして、マルコポーロ最終号の発売日(1995年1月17日)と同じ日に起きた阪神大震災について、震災が起きたその日都内で会った私に、「虫の知らせだったんだ」と言って、震災直前に、コラムで「神戸に地震が起きたら・・」と書いて居た事を、私に熱い言葉で語って下さいました。



今日、野坂先生の訃報を聞いて、阪神大震災の日に、マルコポーロ最終号が発売されたのは、偶然だったのだろうか?と、私は思ひました。




野坂先生の御冥福をお祈りします。






平成27年(2015年)12月10日(木)




西岡昌紀





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「火垂るの墓」野坂昭如さんが死去、直木賞作家&タレントでも活躍。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=84&from=diary&id=3752920





「火垂るの墓」などで知られる直木賞作家の野坂昭如さんが、12月9日に亡くなったことがわかった。85歳だった。




野坂さんは1930年に神奈川・鎌倉で生まれ、戦後に上京。7年間在籍した早稲田大学第一文学部仏文科時代にCMソング、コント、テレビ台本などの執筆を始めた。1967年に「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞受賞。同年には歌手デビューも果たしている。



1983年には参議院選挙に出馬し、比例代表で当選。しかしその半年後に衆議院選挙に出馬するため辞職し、新潟3区で田中角栄と票を争ったが及ばず落選した。

テレビ番組にも多数出演し、タレントとしても活躍したが、晩年は脳梗塞を発症し在宅介護を受けていた。




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