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2015年12月05日20:07

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「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【242】 2015/12/5(土) 名ばかりのクリスチャンはいるか?」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16207 (写真入り記事)

時々、「私は名ばかりのクリスチャンです」という言葉を聞くことがあります。

はじめて聞いた時、「おや?それは一体何のことだろう!?」と感じました。「能ある鷹は爪を隠す」といわれますが、謙遜されているんだろうなと思いました。

しかし、ある時から、「『名ばかりのクリスチャン』という存在はいるのだろうか?」と真剣に考えるようになりました。

この文章を読んだ人の中に、「私は名ばかりのクリスチャンです」といわれたことがある人がいるかも知れません。別に、それを批判しているのではありません。

しかし、世の中には、「クリスチャン」か、「クリスチャンでない人」のどちらかしか居ません。

もちろん、「救われてないと思っているのに救われているクリスチャン」と、「救われていると思っているのに救われていない人」は居るかも知れません。前者はまだしも、後者はこの上なく不幸です。

その明暗を分けるのは何でしょうか?

「イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかり、墓に葬られ、三日目によみがえられた」と信じることです。

『私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと(です。)』(第一コリント15:3〜4)

罪とは何でしょう?

聖書が語る罪とは、「的外れ(ἁμαρτία【ハマルティア】)」です。

的は神で、矢は私たちのことです。神を知らず、神に背を向け、神から離れた状態のことを指します。

これを、罪とは「人のものを盗んだ」、「姦淫や不品行をした」、「嘘をついた」などのことと理解するなら、ボタンの掛け違いのように、かみ合わなくなります。

そうなると、罪は「程度問題」となり、クリスチャンになってからも自覚的に罪を犯し続け、非常識に生き、人に迷惑ばかりをかけていると感じる人は、「私は罪深い人間です!」と感じますが、自覚する限りにおいて常識的に生き、人に迷惑をかけないように気を配り、まじめに生き、毎週教会に通っているならば、「罪人といわれてもピンときません!」と考えるようになります。

「私に罪はない!」と考えたり、「多少の罪はあっても、それほどの罪はない!」と考えているとしたら、「イエス・キリストが必要だ!」という結論には至りません。

しかし、実際、罪とは「的外れ」であり、神から離れた(separateされた)状態のことです。「あなたは罪人です」と聖書が語るのは、「あなたは悪い人です」というのではありません。

人は、アダムとエバの罪によって神から離れ、結果、死が入った状態にあります。

だから、あなたも、イエス・キリストが必要なのです。

人よりも悪いことをするからイエス・キリストが必要なのではないのです。

悪いことをしているかどうかは、神の目から見たら「ドングリの背比べ」です。悪かろうが、良い人であろうが、同じ罪人であり、イエス・キリストが必要なのです。

これがわからないと、「イエス・キリストが、私の罪のために十字架にかかり、墓に葬られ、三日目によみがえられた」といわれても、ピンと来ないですし、よくわからないと思います。

罪の理解の次には、「イエス・キリストを信じているかどうか?」を吟味する必要があります。

教会に長年通い、牧師から、「そろそろ洗礼を受けませんか?」と声をかけてもらったので洗礼を受けたという人がいたら、形はクリスチャンですが、実際は救われていません。

実際に救われてクリスチャンになるとは、「イエス・キリストを救い主と信じること」です。

聖書の中に、イエス・キリストの12弟子の一人で、経理を担当していたイスカリオテのユダという人がいました。この人は、イエス・キリストを裏切ったことで有名な人です。彼は最後、首を吊って自害しました。

ある人は、「ユダは、クリスチャンだったけれど、途中から堕落し、心変わりをしてキリストを裏切ったので地獄に落ちた」といいます。

もしユダが、イエス・キリストを信じていたならば、その信仰によって救われているので、地獄に落ちることはありません。

おそらくユダは、キリストを政治的なリーダーと考え、祖国イスラエルをローマの植民地状態から解放してくれる人だとは考えても、救い主として信じていなかったと思います。そうだとしたら、最初から救われていなかったし、最後までキリストの救いを拒み続けたのです。

ですから、教会には通っているし、洗礼を受けているけれど、救われていない人が居てもおかしくありません。

反対に、「私は名ばかりのクリスチャンでして・・・」と、自信が持てない人でも、イエス・キリストを救い主と信じているならば、救われています。

救われているか?救われていないか?
クリスチャンか?そうでないか?
そのどちらかです。

名ばかりのクリスチャンはいません。

「的外れ」が罪であり、罪人は神から離れている状態で存在している人です。

罪人は悪人ではなく、神から離れているので、死が入っている状態、死の病にかかっている人です。

不治の病にかかっていることがわかった人は、深刻に受け止めます。しかし、罪は、不治の病以上に、はるかに深刻な心の病です。

罪をいやし、罪を赦すことができるお方はイエス・キリストただお一人です。今日、改めて、「イエス様、あなたを信じます」と祈ってみませんか?

聖書の中で、イエス様を罪人を叱責したり、排除している箇所は一か所もありません。イエス様が責められたのは偽善者です。

「私は正しい!」と考え、人を見下し、裁く人に対して叱責され、「私はユダヤ人だから、自動的に天国に入れる!」と考えている人に対して、「考え違いをしている!」と指摘されたのです。

神はあなたを愛しています。あなたを悪人呼ばわりして、あなたの名誉を地に落としたいのではありません。

「あなたにはイエス・キリストが必要である!」と、そのものズバリを語っておられるのです。

イエス様を信じ、イエス様と共に歩んでいきませんか?

実は、今日、「私は名ばかりのクリスチャンです」という人に出会いました。それで、改めてそのことについて考えさせられた一日でした。

一週間お疲れ様でした。
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