http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16185 (写真入り記事)
私には四人の子供がいます。この子たちが小さい頃は、たくさんの苦労もしましたが、楽しく、幸せな毎日でした。
振り返ってみると、もっともっと楽しみながら毎日を過ごしても良かったと思います。それだけ、命一杯の毎日だったからです。
もう一度子育てをやり直してもいいくらい、中身が濃く、充実した時間を過ごしてきました。
四人の子供の内訳は二男二女ですが、一男一女は私に似ていて、あとの一男一女は妻に似ています。
一人づつ手をつないで歩けますし、うちの家庭にはちょうど良い人数の子供でした。
一人ひとり個性的で、それぞれに良さと欠点がありますが、みんな同じようにかわいいですし、愛情を注いでいます。
一番上の子は、のんびり屋さんです。しかし、やる時はやり、決める時はしっかり決めます。ナチュラルで自然体で、友達も多いです。教会にも友達を誘ってきますし、今回のフランクリン・グラハム大会にも、たくさんの友達を誘いました。
二番目の子は、すごくがんばる子です。学校の朝練に休んだことがありません。20分かけて早朝に家を出て行きます。スポーツ万能で、勉強も良くできます。さわやかで、誰からも好かれ、かわいがられます。
三番目の子は、優れものです。努力家で、動きに無駄がなく、優しく、親の手伝いを進んでするし、勉強もよくできるし、スポーツ万能で、言うことはありません。異性からモテるので、同性からやっかまれることがあります。ただ、優しすぎて、その優しさのゆえに人から利用されないかが心配なくらいです。
四番目の子は、とにかくパワフルです。遊び好きで、困難に立ち向かい、とても勇敢です。ゲーム好きで、ほおっておけば一日中ゲームをします。外で遊ぶのも好きです。良い目標が与えられて、このパワーが良い目標に向けられたらすごいことをする人になるかも知れません。
親バカで、ただ子供の自慢話がしたくてこのような話をしたのではありません。みんなそれぞれで、良い点、悪い点がありますし、比較したら、この子が一番優れていて、この子が一番手がかかって大変、などということもありますが、優れているからかわいくて、愛情を注ぐかと言えばそうではありません。
親に心配をかけて、困らせる子にはもっと愛情を注ぎ、かわいがるというのが親心です。
つまり、どの子にも、同じように愛情を注ぎます。
これは、神様が親に与えて下さった心だと思いますし、同時に、神様が私たち(神の子供)をどれほど愛しているかを教えて下さっているのではないかと思います。
しかし、クリスチャンは時々、ありのままで神様から愛されていることを忘れてしまうことがあります。
例えば、神から重い責任ある仕事を任されていることで、神から用いられていると感じて、神の愛が特別注がれていると錯覚することがあります。
神の愛は、できが良くても、悪くても、同じように注がれています。
神は私たちを造られたお方です。愛されるために努力をすることはナンセンスです。ありのままで、すでに愛されているからです。
聖霊派のクリスチャンは、奇跡を求めたり、断食の祈りをしたり、まわりの人の注目を集めるような不思議な業を行うなどの証などを通して、神から愛されようとする傾向があります。
福音派のクリスチャンは、高い行いの基準を設けて、まじめさ、立派さ、聖さなどの基準に達することで神から愛されようとする傾向があります。
社会派のクリスチャンは、社会活動をしたり、人から評価されるような行いをすることで、神から愛されようとする傾向があります。
このように、愛されるための努力をする人がいたとしたら、即刻やめるべきです。
すでに、ありのままですでに愛されていることに気づくことです。神の愛に感謝をし、その愛に応えたい気持ちで良いことをしていきたいものです。
「私を愛し、私のために十字架で死なれたイエス様の愛に感謝をし、この愛にお返しがした。この方に喜んでもらいたい!」という動機で良い働きをするのが健全な生き方です。
『神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』(第一コリント15:57〜58)
私は、四人の子供たちに、ありのままで愛していることを伝えたいので、良いことをしたから特別に持ち上げて、悪いことをしたから毛嫌いをするようなことはしません。
もちろん、良いことに対して評価をし、悪いことに対しては叱りますが、良いことをしようが悪いことをしようが、変わらずに愛しているという心を伝えます。
『天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。』(マタイ5:45)
人の心はなぜ病むのでしょうか?
神の愛がわからなくなる時に病むのです。
こんな詩があります。
ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁にかかれた、『一患者の詩』
「大きなことを成しとげるために力を与えて欲しいと、
神に求めたのに、謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬものであるにかかわらず、
心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。」
これこそ神の愛を知った人の詩です。
あなたは神に愛されています。その愛を知り、その愛の中で生きて下さい。
人の魂は、変わることのない神の愛を求めています。
しかし、私たちは、魂の求めに反して、神の愛の代用品で心を満たそうとすることがあります。
人からの名声や評価、人からの愛情や関心、物やお金、権力や力などを持つことで心が満たされた人は一人もいません。かえって心空しくなり、寂しくなり、もっともっと心が渇きます。
あなたの心には、神の愛でしか埋めることができない空間があります。
2人兄妹、チルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である「青い鳥」を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語があります。
「心を満たされたい」「愛されたい!」と心渇いて、遠くにまで探しに行っても、それは幻想に過ぎません。
神の愛は、あなたの最も手近な場所にあります。神の愛は今あなたが手を伸ばせば手に入れられるくらい近くにあります。
『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』(詩編46:1)
それを受け取ってほしい。私は、その一心で毎日文章を書いてシェアをしています。
今日も、この愛を分かち合えることを感謝しています。
お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします。
ログインしてコメントを確認・投稿する