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2015年11月25日18:25

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三島由紀夫、蓮田善明、エルンスト・ユンガー

●三島由紀夫、蓮田善明、エルンスト・ユンガー

 三島由紀夫について初めて文章を書いたのは、1970年の反安保闘争で東京へ行く直前の18歳から19歳になる時であり、稚拙なものだったが、三島の『憂国』を取り上げて、三島のいう「エロスと大義の相乗」を問うたものだった。
 70年の3月にブント赤軍派の国際根拠地論に基づく、よど号ハイジャックがあったが、私は、次の4月に東京へ行き、6月14日には、アナキストの約400名ほどの隊列の先頭を切って国会前に並ぶ放水車に突撃し、放水車によじ登っていた。そして11月、折しも一時的に大阪に戻っていた時、三島由紀夫の自決があった。
 三島については、上記のもの以外に、その後、『金閣寺』を取り上げたものや『文化防衛論』を取り上げたものなど、幾つか書き、この7月下旬に刊行した『思想としてのファシズム──「大東亜戦争」と1968』(彩流社)においても、「蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜──戦後日本と保守革命」という文章で、和歌と現代の状況をめぐり蓮田善明と三島由紀夫、そして吉本隆明をとりあげている。
 私は、1970年代半ば、自分のアナキストとしての闘争の思想的な総括を兼ねて長編のバクーニン論を書いたが、さらに闘争における暴力体験の総括に関連してエルンスト・ユンガーに取り組み始めた。欧米の作家で、三島と最もよく比較されるのは、日本ではまだ十分に知られていないが、ドイツのエルンスト・ユンガーだろう。ユンガーは、トーマス・マンに続くドイツの文豪だが、第一次大戦の時は、西部戦線における若き特攻隊長として、鉄十字勲章はもとより、ドイツ軍人最高のプール・レ・メリット勲章(ブルー・マックス)を、最年少の歩兵少尉で受勲する英雄的戦士であると共に、デカダンの精神に魅了された文学青年でもあり、その後、「ニーチェの最も過激な門人」と評され、ハイデガーにも強い影響を与えると共に、ジュリアン・グラックという信奉者やシオランという友人を持つ。生前の三島の書架にはユンガーの『言葉の秘密』があったが、たとえば、マンディアルグは熱烈なユンガー・ファンだが、彼の妻は三島の翻訳者でもある。
 ユンガー、蓮田善明、三島由紀夫には、デカダンへの嗜好とヒロイズムの志向という共通項があり、私は、1968年闘争の「戦後的内戦期」ともいうべき1970年代の後半に、ユンガー、蓮田、三島を併読していた時期があった。たとえばユンガーの『In Stahlgewittern(鋼鉄の嵐の中で)』や『Der Kampf als inneres Erlebnis(内的体験としての戦闘)』『Das abenteuerliche Herz. Aufzeichnungen bei Tag und Nacht(冒険心。日毎夜毎の記述)』、蓮田の『神韻の文学』や『有心』『鴨長明』、三島の『仮面の告白』や『鏡子の家』『豊饒の海』その他を。
 三島の死については様々な見方があり、私は上掲書やSNSでも何度か述べており、ここでは改めて記さない。また三島が晩年に結成した楯の会に関しては、その一期生だった阿部勉には生前、昵懇にしてもらった。
 晩年の三島由紀夫の1つのミスに、自衛隊の国軍化を求めたことがあると思う。彼は自衛隊の市ヶ谷駐屯地での最後の演説でもそのことを述べていたが、これはミスだろう。ここで考えるべきなのは、戦前・戦中の日本軍とは国軍だったのかということだ。国軍とは国の軍とすれば、旧軍は、皇軍ともいわれたように国軍ではなく、皇軍と国軍とは別だということだ。これはどういうことか。やはり上掲書所収の拙論「世界革命としての八紘一宇──保守と右翼の相剋」でも述べたように、現在では呉越同舟的だが、いずれ、保守と右翼は、非和解的な対立関係となり、右翼にとって保守は、獅子身中の虫になるだろう。つまり、保守は、天皇を捨て、国をとるということだ。国とは天皇のことだという戦前の家族国家論や国体論の詐術的理論から右翼はそろそろ覚醒すべきだと思うが、皇軍と国軍の問題は、これに絡んでおり、三島は国軍ではなく戦後体験(滅私奉公の否定。私意識の優先)を踏まえた、戦前回帰ではなく、ポスト戦後の皇軍を求めるべきだった。
 また三島由紀夫の遺志を継承したつもりの連中が、どれもこれも三島とは似て非なる、あるいは反三島的な存在だったのは、例えば、三島の言う文化防衛論には、守るべき文化は無いということに無自覚か盲目で、守るべき文化なるものを実体的に肯定したところにあるといえるだろう。
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