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2015年11月18日21:49

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風の谷のナウシカ と 千島学説

http://cancer-treatment-with-diet-cure.doorblog.jp/archives/29926221.html

HPには風の谷のナウシカの写真も掲載されております。
こちらは文字のみの転載となります。




 風の谷のナウシカと千島学説
 【「岡部明美のスピリチュアルな旅で出会った”もの・人・場・言葉たち”」より 】




 もう随分前のことになるが、ある日、がん細胞って何なのかなぁと、ぼーっと考えていたことがある。すると、宮崎駿アニメの中で私が一番好きな「風の谷のナウシカ」のイメージがふっと浮かんできた。
 あの “腐海の森” で、毒を出して人を寄せつけないオウムをはじめとする昆虫たちが、なぜか突然、がん細胞と重なって見えたのだ。


 「火の7日間」− それは、人間が作り上げた文明を焼き尽くす恐ろしい戦争でした。
 それから、千年という長い長い年月が過ぎ、地球には “腐海” と呼ばれる毒を出す植物たちの森が広がっていきました。腐海は、巨大化した昆虫「蟲」たちの住処。人間はその外側、残された土地に国を作り、腐海や蟲たちに怯えながら暮らしていました。誰も近寄らないその腐海の中を、たったひとりで歩いている少女がいました。少女の名はナウシカ。ナウシカは、自然や生き物を愛するやさしい少女でした。




 ナウシカは、キツネリスのテトが牙をむいて、自分の指に噛みつき血を流しても「こわくないのよ、ほら、こわくない。ねっ」と言って、指を差し出し続ける。するとテトは、自分が噛んで傷つけたために流れているナウシカの指の血を、次第に舐め始める。

 「怯えていただけなんだよね。こわかっただけなんだよね」と言いながらテトに触れる。ナウシカは、こうして自分を攻撃してくるものと一瞬のうちに仲良くなってしまう。ナウシカは知っていたのだ。攻撃してくるものは、怯えているものであることを。怒っているものは、傷ついているものであることを。



 人間が毒を出す森である腐海を焼き尽くしてしまおうと攻撃を始めると、腐海の王である強大な蟲オウムが人間を殺そうと暴動を起こす。ナウシカは「怒らないで、こわがらなくていいの。私は敵じゃないわ」と言ってオウムを抱きしめる。

 オウムは人間に攻撃されたため、足はちぎれ、体から青い体液を流し続ける。目は怒りで赤く燃えている。死にかけているオウムに寄り添い、ナウシカは言う。

 「ごめん・・ ごめんね・・。許してなんて言えないよね。ひどすぎる・・・」

 すべてを破壊し尽すほど荒れ狂っていたオウムたちも、ナウシカの優しい語りかけによって静まってゆく。ナウシカの愛だけが、オウムの怒りと凶暴性を失速させられるのだ。私はこの場面で毎回泣いてしまう。

 ナウシカは知っていたのだ。腐海は、人間が汚した世界を綺麗にするために生まれた森であることを。腐海の樹木は、汚れた土や水の毒を体に取り入れて、地下で美しい水、空気、胞子、結晶を作っていたことを。腐海の蟲たちは、本当はみな、その森を守る精であるということを・・・。

 「風の谷のナウシカ」と「千島学説」が私の中で不思議に重なってしまった。千島学説(故・千島喜久男医学博士の学説)では、がんは「血液の汚れを警告しているもの」であり、がん細胞は「汚れた血液の浄化装置」だという考え方をしている。現代西洋医学のがんに対する考え方とはまったく違う。


 千島学説は「血液は骨髄ではなく小腸の絨毛で作られている」という学説だから、今の医学会では認められていない。この学説を認めてしまったら、現在の医学教育を根底から塗り替えなければいけなくなるからだと言う。

 私は医療者ではないから、医学的にどちらが正しいのか、何が正しいのかは分からない。ただ、患者は “素人” ではあるが、“当事者” なわけだから「偉大なる素人」になって、自分にとってのより良い選択をしていくしかないと、当時、患者だった私は思ったのだ。命や人生がかかっているのは患者のほうなのだから。

 「偉大なる素人でありたい」と思った私は、医学的にどちらが正しいかというより、どういう考え方が私にとってより納得できるのか、前向きになれるのか、行動に移せそうなのかという物差しで選択していくしかないと思ったのだ。

 そういう意味では、「がん細胞」=「極悪非道の超悪玉」、故に、どんな手段を使ってでも殺す、叩き潰すという西洋医学の好戦的な考え方より、がん細胞は「血液の汚れを警告するため、血液を浄化するために生まれる」のだから、まず、宿便をとって、腸の大掃除をして、腸内細菌叢のバランスを整え、血液を綺麗にし、酸化した体を中庸に戻し、「がん細胞が生き難い体内環境を作ろう」という千島学説のメッセージのほうが腑に落ちる感覚があったのだ。

 西洋医学のがん医療に対する基本的な姿勢は、がん細胞を親の敵とばかりに憎み、抹殺するという考え方だ。おそらくこれは、西洋にある “善悪二元論” の考え方がベースにあるのではないだろうか。

 西洋は、病気そのものを悪いものと考えているから、症状をとにかく抑える、無くす、消す、叩くということに懸命になる。これがなぜ、西洋医学は “対症療法” と言われるかのゆえんだ。

 確かに西洋医学のお医者さんは、病気、病巣、症状を「叩く」という表現をよく使うし、すぐ「切りましょう」と言う。まるで、肉や魚をさばくような感じだ。なんとなく、ああいう表現って、自分の体を乱暴に扱われている気がする。

 西洋医学のがん治療の言葉に、戦争用語が多いのも気になっていた。絶滅、根絶、戦略、一網打尽、闘病・・・、これは、感染症、伝染病のように、病気の原因が “外” にある時の疾病観のまま、がんという病気を考えているからではないだろうか。

 おそらく西洋医学は、がん細胞を外からやってきたエイリアン・悪魔・テロリストと考えるから “悪の打倒” という戦争医学用語になってしまうのではないだろうか。

 「病気は悪」という考え方が根本にあれば、必然的に、その悪・テロリストを徹底的に叩き潰すという発想が治療の考え方になるのは頷ける。西洋医学は基本的に好戦的で攻撃的な医学なのだと思った。

 それ故、がん細胞を叩き潰すためには、その治療でどれだけ患者が苦しもうが我慢すべきだという考え方になるのかもしれない。そう考えると、西洋医学のがん治療には拷問に近いような痛み苦しみが多いことが納得できるのだ。

 がんというものが “死の象徴” になっているのかもしれない。まるで、がんを叩き潰せば死が消えてしまうかのように。死は決してなくならないのに。もちろん、死とは肉体という物資が消える現象に過ぎないのだが。



 しかし、私は決してアンチ西洋医学ではない。実際、1991年、意識不明になった私が脳腫瘍と水頭症を発症しているのを見つけたのは CTスキャン、MRI 検査という西洋医学の優れた検査技術があったお陰だ。

 生死を彷徨っていた私の命を救ってくれたのも脳外科医の優れた執刀技術によるものだったわけだから、私は西洋医学の素晴らしさを知っているし、感謝もしている。

 ただ、私がずっと疑問に思っていたのは、現代医学が日進月歩の勢いで進化しているというのに、なぜがんになる人が一向に減らないのか、腫瘍が再発、転移した人たちに対しての治療成績がなぜこんなに悪いのか、なぜがんで亡くなる人が増える一方なのか、ということへの疑問だった。

 がんをはじめとする現代病、慢性病、生活習慣病、精神病に対しては、西洋医学は不得意分野であることを知ってからの私は、「患者はまな板の上の鯉」なんて悠長なことを言っている場合ではないと思い、自分で学び、自分で感じ、自分で考え、自分の体の主治医は自分であることを自覚していったのだ。

 こうして、現代西洋医学の長所と短所、得意と不得意を学んでいた私だったので、前述したように、ある日突然、「風の谷のナウシカ」を見ながら「千島学説」との符合を発見してしまったのだと思う。


 がんは耐え難いストレス、極度の疲労、遺伝子を傷つけるものの体内摂取、間違った食習慣、毒素・老廃物・科学合成物質の体内蓄積、深い悲しみや絶望感、無力感、自己否定感、加齢による細胞や肉体の老化、個々の患者の未知の�鶸・・・。

 それらが、体の抵抗力、免疫力という “生命力” そのものを落として発病の引き金を引くと言われている。だから、これに追い討ちをかけるような攻撃的な治療が次々に施されるのは、患者にとってはつらいことだ。まるで、傷口に塩や明太子をすり込むような治療ばかりだ。正常細胞も、がん細胞も、どちらも身内なのに。

 窮鼠ネコを噛むじゃないけれど、追い詰められればられるほど、窮鼠(がん細胞)は馬鹿力を出してしまうのではないだろうか。風の谷のナウシカに出てくる、あの腐海の森のオウムと同じように。

 私だって、自分を攻撃されれば、必死になって自分を守ろうとする。ましてや、自分が殺されそうになったら、何が何でも生き延びようとすると思う。私たちの体の中には、がん細胞ができてもちゃんとそれを消してくれる免疫細胞たちがいるのだから、この免疫細胞たちが元気になること、働き者になってくれること、いい仕事をしてくれることのほうに働きかけていく治療法、健康法のほうに、私の関心は向かっていったのだ。

 免疫力、生命力があることが何よりの鍵なのだから。私たちの体には、毎日数千、数万個のがん細胞が生まれているのだと言う。なぜそれが、がんとして発病しないかと言うと、免疫力、生命力があれば、体自身が、がん細胞を退治し癒してくれるので発病には至らないのだと言う。

 私が体に優しい治療法や様々な代替医療や予防医学に非常に関心を持ってしまったのは、やはり、もう二度とあのような耐え難い肉体的苦痛を味わいたくないからだった。それに女だから、髪が全部なくなるのも、もう嫌だったのだ。髪を失うというのは、女性にとっては本当につらく悲しいことだから。

 がんをはじめとする生活習慣病、現代病には、全員が必ずこの方法で完治するという “決定打” がないのだと言う。だったら私は、この体で実験しながら、自分に合うものを見つけていこうと、あの頃の私は思っていた。

 どんな治療法を選ぶかは人それぞれだけれど、私は苦痛は最小限で、あとは自然治癒力を増幅してくれるような療法を選びたいと思っていた。ただ、現代はあまりにも情報過多で、患者は逆に何を選んでいいか選択に困っている人が多い。その時、自分を救うものは、基本、根本、根源に戻ることだ。

 自分自身が、生とは何か、死とは何か、私とは誰かという、自分なりの生命観、死生観、人生観、身体観、疾病観、健康観、幸福観、そういった思想、哲学を持ち、その上で、自分の体の実感、心の実感を手がかりに、自分にとっての最良のものを自己責任の元に選んでいくという姿勢が何より大切なことなのだと思う。
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