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2015年11月14日02:07

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アイヌと台湾原住民

アイヌを名乗る人2万4千人、日本国民の0.02パーセント。

倭の中央に「アマテラス神の子孫」と称する大王(天皇)がいて、
その南に隼人や熊襲がいて、東に毛人や蝦夷がいた。土蜘蛛、国栖(くず)肥人(くまびと)

隼人の月信仰
桓武天皇の生母は百済の人
七夕祭りと北極星信仰

高句麗、倭国、百済、、、新羅

入れ墨が禁止されたので神々が怒っているだろう、
またこれがなければ結婚できない。(イサベラバード「コタン探訪記」)

同化政策(文化の否定)

1871年アイヌ民族に農耕を勧め、
家焼きの風習の禁止ーあの世での死者の住居として、それまで住んでいた家を 焼いて送るという風習
女性の入れ墨の禁止
男性の耳輪の禁止
日本語の奨励

1872年「地所規則」
1877年「北海道地券発行条例」
北海道を無主の地として、アイヌが狩猟・漁撈で使っていた土地を、和人に払い下げた。

1875年北海道鹿猟規則ー毒矢の禁止
1879年日高地区のサケ漁が禁止
1883年十勝地方でサケ漁禁止
アイヌに餓死者が出る。

霧社事件(むしゃじけん)は、1930年10月27日に台湾の台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件。

台湾領有の根拠となる下関条約は、そこの住む先住民は何もかかわってない。

『セデック・バレ』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=g5W-PJABiQQ


ヨーロッパ人が台湾を発見するまでは、台湾はオーストロネシア語族の台湾であった。

オランダは貿易拠点と中継地を探していたが、中国沿岸でこれを試みて失敗し、台湾を侵略した。
オランダ人が台湾で農耕に従事する漢人を募集して以来、漢人の人口が急激に増加した。
鄭成功の時代にはすでに原住民12万、漢人12万になっていた。
1906年日本統治初期には原住民11万3000人、漢人290万人

1624年に台湾を占領し、1662年に成功に駆逐されるまでオランダ東インド会社による台湾統治は39年に及んだ。

鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン、繁体字:鄭成功、簡体字:郑成功、ピン音:Zhèng Chénggōng、ウェード式:Cheng Ch'eng-kung、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日) - 大明永暦16年5月8日(1662年6月23日))は、中国明代の軍人、政治家。元の諱は森。字は明儼。日本名は福松[1]。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。俗称を国姓爺。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている[1]。鉄人(鉄の甲冑を着込んでいたための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。

日本統治下で辮髪を切り落とし、纏足解放を行った。

戦時中は日本統治当局は台湾人家庭で「神宮大麻」を祀るのを強制した。
皇民化教育と神社神道、中国寺院の整理縮小

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