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2015年10月24日21:18

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ママさんが残してくれた場所(2015優駿エッセイ賞応募作)

一昨年、K−BARのマスターをけしかけて、優駿エッセイ賞に応募してみたら?と勧めてみました。結果は、私ともども予選落ちに終わったのですが、その後、既定の10枚に収める前の原稿を見せてもらったことがあるのだが、店を開いてからのことは、バッサリ切り落とされていました。特に、店がピンチのときに、奥様が励ましてくれたくだりを読んで、

「ここを書かんでどうするの!」

と、一緒に読んでいた人と声を合わせて言ってしまいました(^_^;この時点では、私が店のことを書くつもりはなかったのですが、奥様が亡くなってしばらく経ってから、心の底から、

「マスターが書けないのなら、自分が書いてみよう」

との思いがふつふつと沸いてきて、今回の題材にすることに決めました。奥様と面識のある女性客が、涙を流しながら読んでくれたいたと聞いて、手応えを感じたりもしましたが、編集部の方々を引き付けるほどの出来に持って行けなかったようで、あえなく「予選落ち」で終わりました。

以前は、HPで落選作を公開していましたが、7年前の次作受賞以降は、放置状態でした(^_^;今回は、マスターも、店のお客さんも応援してくださっており、お蔵入りにするには忍びないので、この日記を使って公開するに至りました。

所詮、落選作だけに、大きなことは言えませんが、ほんの少しでも、何かを感じていただいて、また、お店のことに興味を持っていただければ幸いです。

では、裏話はこの辺にして、以下、本文です。


 神戸で一番の繁華街「東門街」の一角に、僕の根城がある。そこは、競馬好きのマスターが二〇〇三年に開いた店で、その看板に紛うことなく、ひと癖もふた癖もある競馬ファンが集まって来る。そんな人たちと競馬の話をするのは楽しいし、何より、幾度となく顔を合わせているのに、マスターとの会話は飽きることがない。ひとえに、マスターのお人柄なのだろう。

 僕自身、店の常連だと自負はしていても、自宅から一時間以上かかる店に通えるのは、月に三〜四回ぐらいのことだ。それでも、どんな人がやって来て、どんな出来事があったのかは、ネット上で毎日更新される日記で紹介されており、それも楽しみのひとつだ。ただ、自分が帰ったのと入れ違いで、人気騎手とかが来店したことを後で知って、とても悔しい思いをすることもあるけどね…。

 ところが、ゴールデンウィークを間近に控えたある日、普段は朝に更新されているはずの日記が、なかなか更新されなかった。こんなとき、まずはマスターの身に何かあったのではないか?と心配してしまう。マスターも還暦に近いお歳なので、急病で倒れるようなことがないとは限らないのだが、日記は夕方に更新され、その線はなくなった。ただ、もうひとつ頭をよぎったことがあった。それは、ママさん(マスターの奥様)のことだ。

 
 マスターとママさんの出会いは、競馬場…ではなく、ごく普通に、友人の紹介だったそうだ。長年競馬に浸っていた男が、競馬にまったく縁のない女性と付き合うとき、どのように競馬の存在を知らしめるのか。男女の仲を競馬が壊したなんて話は、よくあることで、ましてや真剣に結婚まで意識すると、余計に慎重にならざるを得ない。マスターは、「隠す」の選択肢を取ったらしいが、二十年以上も積み上げた競馬人生を簡単に隠し切れるはずがない。その辺を尋ねてみたら、マスター曰く、

「どんな風に、家内に競馬のことを打ち明けたのか覚えてないんやけど、薄々は気づいとったんやろね。まあ、結婚できたんやから、受け入れてもらえた言うことですかね」

 結婚当初、マスターはうどん屋を経営し、ママさんは、引き続き会社勤めを続けていた。しかし、ママさんの身に、深刻な事態が襲いかかった。体調不良で運ばれた病院で告げられた病名は、急性骨髄性白血病。ひと昔前なら、絶望的な不治の病であったが、幸い、抗がん剤治療が効いて寛解した。だだ、病魔は息絶えた訳ではなく、約三年後に再発。今度は、骨髄移植で一命を取り留めた。

 ママさんの病気が再発する少し前、知人からマスターに、何か個性的で特徴を持った店をやってみようとの誘いがあった。かねてから、趣味の競馬を活かした店をやってみたいと考えていたマスターが、その話に乗った。それで、うどん屋を畳み、東門街からは少し外れた雑居ビルに開いたのが、競馬をコンセプトにしたバーだった。

 開店当初こそ、広い人脈で集まってくれたお客で賑わっていたが、半年も経つと、競馬には興味がなく、ご祝儀的に通ってくれた人は去って行き、数えるほどのお客しかいない有様に、ため息をつくマスター。開店して二年ぐらい、そんな状態が続き、すっかり困り果てていた。ママさんは、依然として入退院を繰り返しており、何度目かの入院中にマスターがお見舞いに行ったとき、ついに、ママさんに弱音を吐いた。

「お客さんもあんまり来えへんし、支払いしたら、ほとんど残らへん。もう、店畳んだ方がええんと違うか思てんねん…」

 そんなマスターに、一喝を入れたのが、病床のママさんの返事だった。

「あんた、何言うてんの!生活のことやったら、私が働いて何とかするから、心配せんとき。あんたは、店のことだけ考えて頑張ったらええんや!」

 店の経営について、甘い考えしか持っていなかったことを後悔していたところに、ママさんの一言がマスターの心に突き刺さった。何とかしなければならない。そこから、マスターの奮闘が始まった。

 競馬関係のサイトを見つけては、店のホームページへのリンクを依頼し、ネットを通じて競馬好きに店のことが目に留まるようにした。チラシを作って、ウインズの前で配ったりもした。さらに、常連客が有利になるようなルールの各種イベントを充実させてリピーター確保に努めた。その甲斐もあって、徐々に客足は伸びて行き、閉店の危機を免れた。


 ママさんは、病気を抱えたまま、何度かの休職の後に会社を退職されたが、元気なときにはパートに出て家計を助ける傍ら、日曜日は店の手伝いに来られていた。日曜日は仁川の開催中でもなければ概ねお客は少なく、僕がマスターとママさんを独占することも、何度かあった。それでも、今の東門街の店に移転してからは、ボウズの日がないのが、マスターの自慢のひとつでもある。

 店が休みの祝日は、マスターと店のお客が連れ立って園田で競馬観戦することがあり、その場にママさんも居合わせた。ママさんは、競馬が人の皮を被っているようなマスターの影響を受けることなく、競馬には大して興味を持たなかった。恐らく、競馬の話題には、ほとんどついて行けなかったと思う。それでも、マスターがお客と交わす競馬談義を脇でニコニコと聞きながら相槌を打ち、場を和ませてくれた。要は、マスターと一緒に過ごすことが嬉しくて、その行き先が、たまたま競馬場であったと言うだけのことだろう。

 ただ、病気が病気なので、ちょっとした風邪でも、入院のきっかけになり得た。だから、不特定多数の人が出入りする場は、あまりママさんの体にいいものではなかった。入院の間隔も短くなり、やがてママさんが店に出られることはなくなった。

 ママさんの入院中は、病院に顔を出してから店を開けるのがマスターの日課だった。お客が店に持って来てくれた土産を何種類も持って行くと、店の賑わいを感じて、大層喜ばれたそうだ。
入院の期間は、長くて三か月程度だったのだが、前年の秋から続く入院は、半年を超えていた。どうしても食欲が戻らず、自宅で療養できるところまで回復しなかったからだ。それでも、少しずつはよくなっており、もう少しで退院できるのではないかと、マスターの日記を読んで安心していた。その矢先に、遅れて更新された日記に書かれていたのは、ママさんが旅立たれたとの内容だった…。


 訃報を受けて、僕は、お通夜に参列し、ママさんに最後のお別れをさせていただいた。店では明るく振舞っているマスターも、式場ではすっかり憔悴し切っている様子で、前年にお母様が亡くなった後でも見せなかった程のやつれぶりだった。マスターの夫婦仲は、普段、店以外での深い付き合いまではなかった僕にでも、十分伝わっていた。それだけに、今度は、マスターの精神的な部分が心配になった。それは、他の仲間も同じ思いだった。お通夜の後、参列した何人かと飲みに出かけると、いつ、マスターが店を再開できるのかと言う話題になった。それぞれの考えはあっても、「しばらくは見守るしかない」との結論にしか至らなかった。

 競馬を始めて約四十年、週末には欠かさず馬券を買い続けたマスター。それは、ご両親が亡くなったときも続けていた。そんな人が、とうとう馬券を買えなかったのだから、その落ち込みようは、相当なものだ。

 店を休んでいる間、常連客や、店を手伝っているバイトの女の子たちが、代わる代わる食事に誘ったりして、崩れそうなマスターの心を支えていた。一週間経ち、十日が過ぎても、店は再開しなかったが、やがて、マスターを励ましに行った誰かが、このようなことを言ったそうだ。

「マスター、いつまでも落ち込んどってもしゃあないで。奥さんの支えで続けて来たこの店を、自分のせいで閉めてしもたと思うたら、奥さん、悲しむやろな…」

 それは、僕も内心思っていたことだ。そんな訴えに、ようやく心の整理をつけたマスターは、十五日間の休みを挟んで店を再開した。最愛の人を亡くした悲しみは、客の立場で簡単に癒せるものではない。でも、多くの人が店に通い、競馬の話で盛り上がることで、マスターの気持ちを多少なりとも紛らわせることはできる。再開の日に、僕が店に駆けつけると、すでに、同じ思いで再開を待ちわびた仲間たちが、嬉々として集っていた。


 飲食店を長く続けることは、本当に難しいことだと思う。僕が店に通っている数年間で、同じビルだけでも、どれだけの店が短期間で姿を消したことか。そんな中、この店が十二年以上続いているのは、奇跡に近いと言える。そして、その奇跡は、ママさんの、あの一言が起点となっているのだ。

 競馬そのものを愛した訳ではないが、競馬を愛してやまないマスターを心から愛していたママさん。そんなママさんがいなければ、競馬ファンの集いの場は、とっくに神戸の街から消えており、僕がここに居ることもなければ、数多くの競馬仲間との出会いもなかっただろう。そう思うと、僕は、ママさんに感謝せずにはいられない。それは、誰よりも、マスターが強く思っているはずだ。

 ママさんが残してくれたこの場所で、ママさんが愛した人を慕う人たちが集まり、笑顔に包まれる。そんな日々の繰り返しが、天国のママさんへのご供養になる―。そう信じながら、今日も誰かが、店のドアを開ける。

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