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2015年10月11日00:28

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70歳になったワタシも、

最近やっと自己治療の成果が、おぼろげながら認められそうな手ごたえがあって。
昨夜も食事した若い方に、「急にイキイキしてますね」と言われました。

表に出てるか、そうでないかの違い程度で、ヒトは多かれ少なかれ、発達障害です。
生き延びてさえいれば、いつかチャンスもあるかもしれません。
努力しても、チャンスは来ないかもしれませんが、だからどうってことないです。
どうせヒトは、「死ぬまで暇つぶし」なんですから。

先日も、ワタシの成果に、ここ数年なにかとケチをつけていた専門家が、そろそろヤバイと思ったのか、「いろいろ言ってごめん」と言ってきたから、
「言ってもらわないと、ワタシ前に進めなくなるので、ありがたいです」
と、本気で返事してました。

「これは自分」という領域をみつけると、怖いものがなくなると、思います。
ただそれが、いつ到達できるのか?のタイミングは、領域や経験や努力で、いろいろ違ってきますから。
それまでは、ツライ「自分への失望」が続きます。
ただ「失望」するってことは、「実現すべき希望がある」ってことです。

面白いことに、ちょっとでも「希望の実現が見えてくる」と、いままでの失敗や失望が、すべて「あれがあったから、今がある」みたいに輝いてきます。
「イジメ・トラウマ大歓迎!」です(笑)

周囲をみてても、「大きな失望」がないヒトには、「大きな希望」が無いことってことは確かです。
功成り名を遂げて、技術も経験もトップクラスの力量をもちながら、突然認知症のように自滅していくヒトを見ていると、「狭い世界だから」というより、「失望が無いヒト」ってことのようで、気の毒になります。

そうゆうヒトって、「小さな失望」でも、なんだ、かんだと理由をつけて、実に上手に、自分を誤魔化してます。


よくある誤解で、「芸術家って、能天気のお花畑」と考えられがちですが。
子どもの絵の、活き活きした表現は、子どもの特権で、「大人の芸」ではありません。

子ども時代のワタシの絵から、親父も良く模倣してましたが。
これも実は、ピカソの真似で。

子どもの絵には、「自分への失望」が無いから、「大人の芸」とはいえません。
一部の有名人や芸人さんたちの絵にも、屈託のない良い絵がありますが。
これも「器用な絵」ではあっても、「大人の芸」ではないのです。



もうひとつ発見した「大成出来ない秘訣」は、批判に対して、実に上手に反論できるヒトです。
自分の瑕瑾から、自分で目をそらしていては、前には進まないでしょうに。

最近は、自由主義経済的価値観がはやっているので、みなさんあまり口にしませんが、古い道教の開祖・老子の言葉とかで、
「大賢は大愚に似たり」
とか、「大賢は愚なるが如し」というのがありまして、「大知は愚のごとし」とも言うそうですが。

日本では、禅の言葉として宣伝されたらしく、良寛さんの短い漢詩に、「起き上がり小法師(こぼし)」と題するのがあって。

これは玩具のダルマのことだそうで。

  人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす
  さらに一物の心地に当たる無し
  語を寄す、人生もし君に似たらば
  よく世間に遊ぶに何事か有らん

*意味は、

  「玩具のダルマは、人に投げられても投げられたまんま、
 笑われても笑われたまんまで、それに対して何らの感情や妄想を起さない。  
  もし我々人間も君のような生き方ができるならば、
 人生を暮らすのに何の苦労もないであろうに」

というのだそうですが。

ところがワタシは逆でして。
「大愚は大賢に通ず」と、考えてます。

ワタシは、もともと被虐待児なので、「人に投げられても投げられたまんま、笑われても笑われたまんまで、それに対して何らの感情や妄想を起さない」 というのは、子どものときから、きわめて日常的感覚として、持ちあわせていまして。

「投げられた・笑われた」なんていうのは、むしろ「注目されてる・大事にされてる」ぐらいの捉え方なくらいで。

「投げられた・笑われた」が無い真空状態に、どこまで耐えられるか?で、70年を過ごしてきたといっても、良いくらいでして。

例えば女房に小言をいわれても、ニコニコしているので、「ガンコで、反省が無い!」と叱られるくらいで(笑)

どうやらワタシは、世間の小賢しくも「大賢」を目指すシアワセに育ったヒトたちとは、元々の基準が違っているのかもしれません(笑)


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