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2015年10月06日19:15

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山梨県の地方病

ノーベル賞 大村さん一問一答
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3649304
大村先生は山梨県の人であるが、山梨県ではかって日本住血吸虫症という寄生虫病が広く流行し、官民挙げての防除予防の闘いが繰り広げられた土地なのである。
薬を開発し、中間宿主宮入貝を根絶し、耕地を改良し、自然破壊のそしりを受けようともひるまず、県全体で防除に成功したのである。
大村先生もこの事実をご存じのはずなので、心の根底には日本日本住血吸虫症の事があるであろうと思われるのだ。何か因縁のようなものを感じるのである。
日本住血吸虫症(地方病)についてのWikipediaの本気http://togetter.com/li/883236
Wikipedia地方病https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E7%97%85_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%8F%E8%A1%80%E5%90%B8%E8%99%AB%E7%97%87)



以下引用
2015年のノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大村智(さとし)北里大特別栄誉教授(80)が5日夜、東京都港区の北里大学で会見した。「私の仕事は微生物がやっている仕事をいただいたもの。私自身がこんな賞をいただいていいのかな」と受賞の喜びを語った。主な一問一答は以下の通り。【デジタル報道センター】


 ◆(大村さん、以下略) きょうはありがとうございます。きょうは午後4時半に家に帰ろうとしたら秘書に止められ、「何かあったかな?」と思ったら、このような運びとなりました。秘書には予感があったのかもしれません。私の仕事は微生物がやっている仕事をいただいたもので、私自身がこんな賞をいただいていいのかなと思います。皆さんはいろいろと賞をくださいましたが、私自身は微生物の仕事だと思っています。これからも若い人たちが仕事を続けて、こういう仕事をしてくれるのではないかと思います。


 日本は微生物をうまく使いこなしてきた歴史があります。食料にしても農業生産にしても微生物のことをよく知って、人のため、世の中のためにやってきたという歴史がある。そのような環境に生まれたことは良かったと思います。このような賞(ノーベル賞)に恵まれたのは、そのような先輩の中で仕事ができたということもあると思います。もう一つは本学の創設者の北里柴三郎先生の「人のために仕事をしなければならない」という精神です。私も微生物が「何とか役に立たないか」と思ってやってきました。


 皆さんの前に立つなら、もっとちゃんとした格好で、もっといいネクタイで立てばよかった(笑い)。


 −−(会見中に安倍晋三首相からお祝いの電話があり、終わった後)安倍首相の電話の内容は?


 ◆若い人たちにも、私のような研究をする後継者が生まれるようにお願いしますと伝えました。


 −−どなたに喜びを伝えたいか?


 ◆研究者として一番大切な時に支えてくれた、亡くなった妻・文子に伝えたいです。何より喜んでくれると思います。


 −−座右の銘は?


 ◆母は小学校の先生で、忙しくて(子供の)面倒を見られないことも多かったのですが、祖母から「人のためになることをしなさい」と言われました。分かれ道に立った時は、それを基準に考えてきました。


 −−「人と同じことをやっていてはダメだ」とのお考えとうかがったが。


 ◆私は人まねはしません。まねをするとそこで終わり。私は高校、大学とスキーばかりやっていました。国体選手にもなりました。ある時、新潟の先輩から聞きました。北海道に何度も行って練習してきたけれど、勝てないと。そこで指導教授が「北海道に行くのはもうやめ」と言いだし、自分たちで練習するようになった。すると、国体で優勝した。そういう話を聞いて、自然科学も一緒だと考えました。人のまねをやっていては人を超えられない。まねをしたら超えられないというのは学生時代からずっと思っています。


 −−なぜ(静岡県)川奈のゴルフ場から土を見つけたのか?


 ◆「これ」と土地を決めるのではないんです。実際に分かっているのは「伊東市川奈」というところまで。ゴルフ場は付け足しなのですが、「大村のやつはゴルフしながら……」とは周りに言われますね。財布の中に今もビニール袋を持っていて、多くの土をチェックして、培養液につけています。


 −−プレー中というわけでないですよね。


 ◆いや、もちろんプレー中のものもありますよ(一同笑い)。ゴルフが終わった後で、靴に付いた土を取ったこともあります。


 −−若い学生に一言。


 ◆絶えず失敗しないとだめなんです。成功した人は失敗のことは言わないんです。私もそうでしたが、成功の陰にはその何倍もの失敗がある。そのことを忘れないでほしいですね。


 −−「微生物の力を借りながらここまでやってきた」とおっしゃったが、どうして微生物に興味を持ったのか。


 ◆東京理科大学の修士課程を出ました。有機化学を中心に研究しました。山梨大学でもワインの発酵の研究をした。培養液の中に入れていた砂糖とかグルコースが、一晩であとかたもなくアルコールになっている。グルコースからアルコールができるのを見て「微生物ってすごいな」と思った。北里大学で、私がやってきた微生物と化学の両方を利用して、私の研究をやろうと考えた。それがのめり込んだきっかけ。


 −−薬を作る仕事はなかなか成功しないことも多いのに、先生はたくさん作られた。なぜ?


 ◆この研究は共同研究の「塊」の成果なんです。さまざまな方の助けがあったからこういう成果を挙げられたと思うんです。それと私自身はなるべくたくさんのことを知ろうとめちゃくちゃ本を読みます。だから私の専門は、今は「スペシャルコーディネーター」のような肩書です。


 −−苦しい経験は?


 ◆うちのグループの場合は、たくさんのグループでやっていて、全くものが見つからないということはあまりないんです。みんなで共同研究をやっている成果と言えるかもしれません。


 −−ゴルフ場の件をうかがいたい。川奈のゴルフ場の土はどう違うのか?


 ◆我々が土壌採取をする時は、あらゆる可能性を考えて土を取ります。川奈の土を取ったというのは、川奈の土が他とどう違うのかを調べるということでもあります。あらゆる可能性を考えて採取します。我々は年間2000株、4000株という種類を培養する。大変な作業になります。みんなで、そういう共同研究体制をきちんと組めたというのが、幸せでした。みんながとてもよく働いてくれた。


 −−川奈のゴルフ場から取った?


 ◆菌を分離したときは全く分からない。何年か後に分かるんです。取ってから5、6年かかるので、1人でできる仕事じゃないです。これは日本人に向いているんじゃないかと思う。「俺がやった」という人ばかりでは成り立たないんです。


 −−何というゴルフ場なのか?


 ◆僕がその名前をいうと、ゴルフのために取ったと言われそう。そこから取った土というだけです。


 −−ゴルフは好きですか?


 ◆はい(笑い)


 −−大学卒業後、定時制の高校に勤めた後、研究者になった。その異色の経験はどう生きているか?


 ◆私も大学を出たばっかりの若造だった。まだ多感だった。いきなり高等学校の夜間(定時制)の先生になった。工業高校だったので、(生徒は)近辺の工場で仕事を終えて学校に来る。ある日、試験監督をした日だった。期末試験に飛び込んできた生徒がいた。その生徒の手には、まだ油が付いていた。それを見て「ああ生徒たちはこういうふうに勉強しているのか」と思った。そこで自分は何をしているのか、と。最初はいい先生になろうと思って、東京理科大で勉強した。一回も東京で生活したことがないのに、いきなり(東京の)高校で教えた。私が甲州弁でしゃべるのをまねして、江戸っ子が笑う。「それ、どういう意味ですか」と笑う。化学の先生ではなく、語学の先生ですよ。そうこうするうちに、だんだん自分は研究した方がいいな、研究者になったほうがいいなと思うようになった。ちょうどその頃、北里大で、化学と微生物を一緒に研究できるようになった。


 −−先生自身が、山梨で勉強していた時に苦労した経験はあったか?


 ◆私は農家の長男で、そこで教わった農作業の一つ一つが勉強になっていますね。東京理科大時代は、昼は大学に行き、夜は高校で教えた。結婚した時はやせ衰えて、結婚したばかりの妻には「病気のようだった」と言われました。でも、スキーで苦しい経験もしたので、「あれから見れば楽だな」と思ってやっていました。


 −−研究のやりがいは?


 ◆やったことは大体失敗するわけです。うまくいかなかったり、失敗したりしていましたが、でも何回か繰り返すと「またやろう」と思って、やる気になるんです。

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