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2015年10月01日13:02

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オムツをつけた35歳児

たとえば、会社の社長が『うちの社員はクソばかりだ』『無能な奴ばかりだ』と
罵ったとしたら?
きっと従業員はやる気を失い、まー生活のために必要だから働いているわけだから
やめはしないまでも、きっと能率がぐんと下がるんじゃあないかな?

この濱野氏とかいうやつは、大人になりきれていない五歳児の大人なんだと思う。
大人になりきれない人というのはどういう人たちか。一口に言えば自分一人が生きるのに精一杯なのに、社会的責任を負わされて生きるのが辛くて、どうにもならなくなっている人たちである。つまり『五歳児の大人』なのである。どうにも生きるのが辛くなっている五歳児の部長もいれば、五歳児の母親もいる。もちろん五歳児の父親もいる。五歳児の先生もいれば、五歳児の新聞記者もいる。そしてオムツをつけた社会学者もいる。
日本全国どこへいっても『生きるのが辛い』五歳児の大人がいる。
ノイローゼの親に育てられた子供は、心理的成長の機会を失う。

しかし、生まれて三十年経てば、肉体的には三十歳である。そして社会的にも
三十歳である。心理的に五歳でも、肉体的、社会的には三十歳なのである。
社会はこの五歳児の大人に三十歳の大人の義務と責任を求めてくる。
これがどれほど辛いことであるかは、愛されて育った人には、想像を
絶するものがある。簡単にいえば五歳児に三十歳の男が持つ重い荷物を
持たせて歩かせるのである。周囲の人は、誰もが当たり前のように、
この五歳児に重い荷物を持って歩く事をと求めてくる。
五歳児の大人がそれを重いと言えば、周囲の人から袋叩きにあうだろう。

心の成長がある段階で止まったままで、社会的に過剰に適応しているのが、
五歳児の大人達である。五歳児の大人は、時に真面目であるが、心は優しくない。
人は、満足をするから優しくなれる。五歳児の大人たちは、心の満足がないまま
社会的に適応を強いられたのである。疑似成長という言葉があるが、
まさに五歳児の大人は疑似成長なのである。
心理的に成長して、その結果として社会的に適応しているのと、心理的に
成長していないのに無理に社会的に適応しているのとでは、まったく違う。
心理的に成長して、その結果として社会に適応している人は、社会的に適応した
行動をとりながら、満足している。

しかし心理的に成長していなくて、無理に社会的に適応している人は、社会的に
適応した行動をとるのが辛くて、きつい。だから、毎日生きるのが辛いのは、当たり前である。五歳児の大人は、社会的に適応しているが、毎日が不満である。面白くない。楽しくない。そうなれば『他人に優しくなれ』といっても無理である。

五歳児の大人とは、社会的には立派に見える人だけれども、心が貧しい人である。
五歳児の大人には、心の豊かさ、優しさ、満足感がない。心理的に健康な大人と一緒にいると、相手も豊かな気持ちになる。しかし五歳児の大人といると相手も緊張する。

五歳児の大人のイライラは、ちょうどテーブルを拭きたくないのに、強引に拭かされた子供のイライラした心理状態と同じである。テーブルを拭いたほうがいいが、拭かないほうがいいかといえば、拭いたほうがいい。しかし社会的に望ましいことをいやいやした時、心の優しさは消える。
鉛筆をイヤイヤ削らされた子は、鉛筆を削るのを忘れた子供に鉛筆を貸さない。
自分がそれだけイヤな事に耐えさせられたのに、他の子供がそれをしないということが許せないのである。 礼儀正しくしたくないのに、礼儀正しくした人は、礼儀正しくない人を許せない。
小さい頃、家の手伝いをしたくないのに、心理的に力づくで、つまり親からの
プレッシャーで、家の手伝いをさせられた子供は、自分が親になった時、今度は家の手伝いをしない子供を許せない。『親からのプレッシャーで』ということは、たとえば『それをしないと見捨てるぞ』という脅しなのである。
小さい頃、泥んこ遊びしたいだけすれば、泥んこ遊びは卒業していく。少年時代に、たとえそれが奇妙な格好でも『したい格好』をすれば、奇妙な格好は卒業していく。女の子も『したい髪型』をすれば、それを卒業していく。心理的に健康な大人は、何事も興味から入って、満足して、それらを卒業してきたひ人々である。
しかし、五歳児の大人は、すべてを我慢して生きてきた人たちである。
したがって、五歳児の大人の特徴は、『生きるのが辛い』ということと同時に他人に厳しいということである。人は自分がしたいことをした時に、他人のわがままを許す。しかし、それを我慢させられて人は、他人のわがままを許さない。
心理的に健康な大人は、生きるのが楽しいし、他人には優しいのである。五歳児の大人は、この逆である。

ところで大人になる準備もなしに、身体だけ大きくなってしまった幼児、つまり五歳児の大人が、今の日本にはたくさんいる。そうした人々は自分が大人になる準備をしていないので、他の人も準備をしていないと思っていたりする。
そして、心理的には幼児なのに社会的には責任ある立場に立たされて、生きるのが辛くなっている。これが五歳児の大人である。
それらの人々は、山登りをするのに、何の準備もなしに険しい北アルプスに登るようなはめになってしまっているのである。しかし何のために山に登るのかが分かっていない。だからよけい辛い。 
無責任に快楽を求めて生きる子供の能力しかないのに、社会的に責任ある立場に立たされてしまう。子供の心のままで、大人らしく生きられる魔法の杖を求めるが、それも見つからない。だから生きるのが辛い五歳児の大人の特徴は何よりも
『生きるのが辛い』と感じていることである。

オムツをしたままファッションリングをつけている女性を考えてみてほしい。五歳児の大人はそんな奇妙な人達である。心理的いえば、まだオムツはまだ取れていない。それなのにその年の流行したブランド物のハンドバックを持って街を歩いている女性と同じようなものなのである。


この濱野とかいう男もオムツをつけた35歳児なんだろうね。
『自分がこれだけ一生懸命しているのに その努力も苦労も知りもしないで』
そうやって、自分は努力している(と思い込んでいる)からこそ、努力しようともせずにやめていった奴らが許せない・・・・となるんだろうね
わずか31年3か月でやめていったメンバー22人から14人にもやめた理由を本人らの
弱さなどと勘違いしてる時点でダメダメだよ。

オムツをつけた35歳児に 35歳と同じように人を思いやったりはできないだろう。
人の上に立ち人を動かすという言葉を、人を上から操るようなイメージで
やるとこうなりますよっていういい見本だろうな。
人の上に立ち人を動かすというのは、自らも下になり礎になり、時には褒め、時には労い、時には叱りつけて 同じ方向(目標)を見つめ続けるってことなんだよね。
慶應義塾大学環境情報学部卒業
慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。
2005年より国際大学GLOCOM研究員。
2006年より株式会社日本技芸リサーチャー。
2011年から千葉商科大学商経学部非常勤講師。
どんなに頭が良くて、どんなにご立派な大学を出、どんなご立派な大学の講師を務め
どんなに偉い地位や名誉や金を持とうが、たとえどんなにその分野で秀でていようが
対人関係を築くどころか、傷つけ続けてる この濱野氏は『未熟者』なんだろう。

もちろん誰だって『未熟者』さ。俺もこれを読んでるあなたも、隣に座っているサラリーマンのおじさんも、お父さんお母さんだった足りない部分は誰しもある。
しかし、大切なのは完璧かどうかじゃあない、そのことに気づき、それを補うために努力を惜しまずに続けてかどうかだから。

宇野常寛・小林よしのり・中森明夫らに触発されて、『僕にもできるかもかもハート
なんて思い込みたがるのは頭は良くてもインテリで、回転は早くても一辺倒な動きしかできない『秀才君』にありがちなことだね(笑)

こういうのを車で例えると、秀才君タイプはレーシングカー。早いけど急には曲がれないし早すぎて周りが見えていない・・・・・

俺みたいなタイプは自転車タイプ。遅いけど、景色を見ながら時には立ち止まって花を眺めたり、海を眺めたり、地元の人とコミュニケーションをとったり、夏は水着姿のナイスバディーなお姉ちゃんを眺めたり。。。。えへえへえへ(揺れるハート⌒Q⌒揺れるハート)(笑)

ゴホンッ(ー。 ー;)  
ま〜どっちがいいかは置いとくとして、頭が良すぎる上に『僕にはなんでもできる』と
思い込んじゃうと、柔軟性が失われるらしい。
まー根拠のない思い上がりでもないよりはマシなのかもしれないけどね(笑)
人を見下したり、人をこけおろしたり、人を物か何か 自分のステータスだとか挑戦意欲だとか目的や願望を満たす教材か何かに見え出したら・・・・・
人としてもう終わりってことだな

それをこの濱野氏は教えてくれてるんじゃあない?


運営「アイドルはクソ」発言で炎上
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=29&from=diary&id=3642240
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