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2015年10月01日13:00

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2015年9/29〜9/30中央アルプス・将棊頭山△2730m

伊那側から木曾駒ヶ岳へ至るコースのなかで、最も歴史のある桂木場
から取り付き、将棊頭山を登頂してきた。
今回も天気に恵まれて、360度の展望を満喫してきた。

8/28,向島を出発。京都の山仲間と合流して美濃加茂インターから中央道
に入る。14:20。伊那インターで降りて(16:14)小黒川渓谷キャンプ場
の先にある、桂木場の登山口にて泊まりとした。空を仰ぐとスーパームーン
の翌日でもあり、大きな月が鮮やかに夜空を照らしていた。
8/29,朝5時起床。6時出発。桂木場の標高は1280m。将棊頭山は△2730m
であるから、標高差は1400m以上ある。
ぶどうの泉と呼ばれる水場を過ぎ、野田場の水場で一息入れて標高2000m
と書かれたプレートには8:00。ここからは奈良井の源流・茶臼山行者岩の
展望台があった。10分で大樽避難小屋。平日であるが、若者3人組・夫婦連れ
単独行2人が降りてきた。胸突八丁と呼ばれる急坂が始まる。
すでに紅葉が始まっており、ナナカマドの赤が一際目立つ。一時間登ると
津島神社だ。30分で胸突の頭。
ここから展望が開け、八ヶ岳連峰が望まれた。今日は雲一つない晴天である。
分水嶺からは、ますます展望が開け乗鞍岳が見える。西駒山荘には10:10。
木曾駒ヶ岳△2956.3mがどっしりと目の前に聳えている。    

新田次郎の小説「聖職の碑」で有名になった「遭難記念碑」には10:25。
大正2年の出来事だった。合掌。遭難碑には大正2年8月26日中箕輪尋常高等
小学校長・赤羽長重君は修学旅行のため児童を引率して登山し。翌27日、
暴風雨に遭って終に死す。・・・以下、10人の教員・生徒の名が刻みこまれて
あった。新田次郎の小説「聖職の碑」序章には、「このような場合、一般的
には<遭難慰霊碑>とするのが当たり前なのに、なぜ<遭難記念碑>とした
のであろうか・・・・と書かれている。

将棊頭山には10:45。大展望が開け、甲斐駒・御嶽・槍・穂高・笠ヶ岳まで
望める。なんと富士山の頭も顔を出している。昨日、北海道大雪山の初冠雪
があったようだが、富士山にはまだ白いものはなかった。
展望を楽しんで西駒山荘前で食事。西駒山荘は平成26年夏にリニュアルオープン
したそうで綺麗な小屋である。水場は一分と近くにあった。
下りにかかる。11:25。胸突八丁には12:30。
登りの時に見落とししていたが。昭和50年7月24日にあった、伊那中学の落雷
事故現場があった。合掌。13:40。桂木場には14:00に戻った。
伊那インターから高速に入り、京都には19:30帰ってきた。

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