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2015年09月21日11:13

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セーラームーンCrystal・22〜24話

 文化祭関係の仕事が忙しくて、9月上旬は毎日午後10時過ぎまで学校で仕事をしていた。
 今年は楽だな、今日は久しぶりに早く帰れるな……と思った日に予想外のトラブルが生じ、結局早く帰れなかった……という日もあった。
 10時過ぎまで学校にいるわけだから、帰宅は11時ちょっと前とか、11時過ぎとかになる。今までだとそういう日でもmixiの日記はなんとか書いてきたのだが、今回は書くのをやめた。すると……

 ……楽だった(^^)。
 ……ものすごく楽だった(^^)。
 疲れを癒すために短時間だがごろごろしたりダラダラしたりできるし、眠ることも出来る。日記を書くために早起きしていた時間を、睡眠時間に充てることも出来る。なんて楽なんだ。
 mixi日記がどれだけ負担だったか、よ〜く分かった(^^)。

 9月10日、台風の影響で警報が出て、学校が休校になった。そのため、文化祭関係でも甚大な影響が出た。
 さらに文化祭当日(9月12日)、普通ならあり得ないようなトラブルが生じ、とてもショッキングな事態が生じた。
 なんか、心が折れちゃったというか、ガックリしちゃって、肉体的にも疲れ果てていたし、それ以上に精神的に疲れ果てた。それがずーっと尾を引いて、全然気力が湧いてこない日々がしばらく続いた。立ち直るのに1週間くらいかかった。それで、日記を書く気力もわかなかった。

 9月17日くらいから普通の生活が戻って来た。が、日記を書くのがめんどくさくなっていた(^^;)。だから、日記をさぼってのんびりさせてもらった。
 だいたい、楽しみのために書いているもののためにヘトヘトに疲れるというのが、間違っていたのだ。

 ……というか、歳を取ったということだな、と最近思う。
 色々な面で、気力がどんどん衰えている。
 何ヶ月か前、ツイッターでフォローしている人(SFファン)が、若い頃はSF大会に行ったり、あれをやったりこれをやったり……していたが、もう何年もSF大会には行かなくなり、あれもやらなくなりこれもやらなくなり、今はまだこれこれをやっているがそのうちそれもやらなくなるかもしれない……みたいなことをつぶやいていたのを読んだ。
 そういうの、よく分かる。

 若い頃って、とにかくエネルギーが満ちあふれていて、いろんなことをやれた。というか、いろんなことをやりたかった。
 例えばしばらく前のことだが、「最近落書きをしなくなったなー」なんてことに気付いた。
 学生時代は授業中にノートに落書きをしまくっていて、中学生くらいまでは主にアニメや特撮のキャラクターとか怪獣とか、高校になってからは宇宙船とかロボットとかのメカを書くようになり、大学時代もオリジナルのロボットとか変身ヒーローのデザインとかを授業中にノートのすみに書いていた。女の子の絵なんかも書くようになった。社会人になったあとも、会議中に資料のすみの空白部分に絵を描いたりしていた。
 しかし今は、「退屈な時に落書きをする」ということが、全くない。
 多分、「絵を描く」ということには気力が必要で、気力が低下した結果、それは暇つぶしのためにやれるようなものではなくなってきたのだろう。

 大学時代、マンガや小説の設定を書くためのノートを作っていた。社会人になった後も、そのノートは作り続けた。合体ロボットのデザインをしてみたり、思いついた漫画のあらすじを書いてみたり。
 が、もう何年も、そんなことはしていない。漫画とか小説とかのアイディアがふと湧いてくることもなくなったし、創作意欲が湧いてきて何かを書きたくて書きたくて仕方なくなるということもなくなった。

 ……こういうのが、歳を取るということなんだろう。
 今後、また毎日日記を書くようになるかどうかは分からない。書くかもしれないし、書かないかもしれない。

                         *

美少女戦士セーラームーンCrystal・第22話「思惑 -NEMESIS-」

 脚本:小林雄次、演出:宍戸望

 見たのが3週間くらい前なのでよく憶えてないが、確かちびうさがブラックレディになる回だった。

 旧アニメ版だと、何話もかけてちびうさのキャラクターを描き込み、うさぎとちびうさが絡むエピソードを重ねてきたから、「ちびうさが敵になった」という状況はドラマチックだった。
 が、本作の場合、原作(と呼ばれている漫画版)に準拠しているため仕方ないのだが、ちびうさのキャラクターに魅力がなく(視聴者が感情移入できるような描かれ方をしていない)、うさぎはちびうさに対し嫉妬するだけで、ちびうさを守ろうとかちびうさをかわいく思うとか、そういうエピソードが全くなかった。これではちびうさが敵になっても、「ああ、そうですか」という感じしかない。

                         *

美少女戦士セーラームーンCrystal・第23話「暗躍 -WISEMAN-」

 脚本:小林雄次、演出:中尾幸彦

 見たのが2週間くらい前なのでよく憶えてないが、確かプリンス・デマンドがブラックレディの超能力で洗脳される回だった。
 つまらなかった。

                         *

美少女戦士セーラームーンCrystal・第24話「攻撃 -BLACK LADY-」

 脚本:伊藤睦美、演出:平山美穂

 今朝見た。
 「見るのが苦痛」レベルのつまらなさだった。

 無印のアニメ版を見た時から思っていたこと(そして、日記にもしばしば書いたこと)だが、「セーラームーン」の原作の作劇は、「漫画好きの中学生がノートに鉛筆で書いて友達に見せる漫画」レベルだ。
 一般に、創作に「完全なオリジナル」なんてものは普通はない。作者が過去に見た作品に知らず知らずのうちに影響されていたり、意識的に参考にしたり、意識的に「大好きなあの作品みたいなものを作りたい」とか思って作ったり……。しかしプロの作家である以上(いや、アマチュアでもそれなりの人なら)、元の作品をそのまま再現するのではなく、自分なりに咀嚼して再構成し、「自分の作品」にしてしまうものだ。「自分の作品を作りたい」というのが創作の大きな原動力の1つだからだ。
 ……ところが原作版「セーラームーン」は、漫画好きの中学生がノートに書き殴った漫画みたいに、「自分が過去に読んだ漫画の中で、自分がとても気に入った要素」が、ほとんど咀嚼されずにそのままぶちこまれている。「要素の羅列」みたいな稚拙な作品であり、作劇の体をなしていない。

 「愛し合っていた恋人が敵の戦士として攻撃してきた」とか「マスコット的な小さなかわいい女の子が、大人の女性になって敵として攻撃してきた」とかいうシチュエーションは、「よくあるパターン」だ。なぜそれが「よくあるパターン」なのかというと、うまく描けば面白い展開になるからだ。ヒーローもの以外では、梶原一騎がよく使った。星一徹や伴忠太が飛雄馬の敵に回ったドラマなんか、意外性とかドラマの緊張感とか、最高だった。
 しかしこのパターンがドラマとして効果的になるためには、敵に回ることになるキャラクターが「絶対に敵になりそうにないキャラクター」で、「主人公との深い絆が十分に描かれたキャラクター」で、「読者(あるいは視聴者)から『主人公の味方側キャラクター』として認知され、親しまれ、愛されてきたキャラクター」である必要がある。パッと出てきた新キャラが敵に回ってもただ「新しい敵が出ました」だけだし、「最初からイヤな感じだったヤツ」が敵に回ってもドラマ性は生じない。
 だから、「味方側キャラクターが敵に回る」というドラマを効果的に描くためには、その展開が効果的になるような段取りが必要なのである(当たり前だ)。
 ところが武内直子には、「段取り」をすっとばして「おいしいところ」だけをいきなり描く、みたいな作劇しかできない。
 タキシード仮面は「敵か味方か分からない存在(それはそれで、そういうキャラクターが出てくるのはよくあるパターンだし、そういうキャラには魅力的で面白いキャラが多いが)」として描かれ続けた後に、ほんの短い「うさぎとラブラブ」描写が入ったかと思ったら、タークキングダム側の戦士になった。
 ちびうさは、謎の存在として登場し、「主人公側を信用しない、生意気で、イヤなヤツ」という描写だけ続き、何かウジウジと悩み続けている描写はあっても「何をしたいのか」「何を悩んでいるのか」が明確にされず、主人公側との「絆」なんてものができないうちに、ブラックレディになった。
 ……これで面白いわけがない(^^;)。

 旧アニメ版が面白かったのは、原作(と呼ばれる漫画版)では描かれなかった「段取り」を、ちゃんと描いていたからだ。
 タキシード仮面は頼もしい味方だし、面白い変態だし、変身前のまもちゃんとうさぎたちの絡みも存分に描かれていた。ちびうさの描写もしかりだ。だからタキシード仮面やちびうさが敵になる展開がドラマとして機能したのだ。

 原作(と呼ばれる漫画版)のキャラクター描写が薄いのは、武内直子の作劇がヘタということの他に、月刊ペースで描かれた漫画だからページ数が多くない、という原因もあるだろう。
 例えば……。
 ……「仮面ライダー」の原作者は石森章太郎だが、「仮面ライダー」のおおまかな企画自体は石森章太郎の参入以前に平山亨らによって作られており、「ショッカー」とか「本郷猛」とかのネーミングも石森章太郎参入以前に作られたものだ。そして、実際に放映された映像作品についても、各回のストーリーを石森章太郎が詳細に考えたわけたわけではない。石森章太郎による漫画も、その漫画を元に脚本が作られたわけではなく、漫画版の第1話なんかは脚本が元になっているし、第2話以降は石森章太郎はテレビをあまり意識せずに好き勝手に書いている感じだった。
 ……が、では石森章太郎は実質上の「原作者」ではなく「仮面ライダーやショッカー怪人のデザインの提供者」や「コミカライズ版の執筆者」に過ぎないかというとそうではない。平山亨や伊上勝や市川森一らによる元々の企画だけでは、あの大ヒット作品は生まれなかった。元々の企画に石森章太郎が加えた要素(デザインも含む)こそが「仮面ライダー」を「仮面ライダー」たらしめたのだ。石森章太郎が提供した設定やデザインは、充分「原作」の名に値するものだった。

 「セーラームーン」の原作(と呼ばれる漫画版)も、アニメ企画が先行して、アニメに合わせて連載が開始された……という点では「仮面ライダー」の原作と立場が似ている。
 違うのは、「仮面ライダー」の場合、早い段階でテレビと漫画が別々の道を歩み始め、お互いにほぼ好き勝手に展開していったのに対し、「セーラームーン」では最後までアニメ版は漫画版を「原作」として使い続けた……という点だ。「R」や「セーラースターズ」では、原作がたまるのを待つ間、時間稼ぎにオリジナル展開を最初の1クールに入れる……なんてこともしている。「仮面ライダー」と違い、旧アニメ版「セーラームーン」は、確かに漫画版を「原作」としていたのだ。
 一方、「仮面ライダー」と似ている点は、「『原作』が提供していたものは、ほぼ『デザイン』や『設定』だけ」という点だ。武内直子は、物語の作劇は絶望的にヘタクソだが、非常に魅力的なデザインや設定を提供できる作家だったのだ。旧アニメ版のスタッフは、原作の設定を使い、その設定を生かすための「作劇」を自分たちで(つまり、原作漫画に頼らずに)作り出した。漫画版と違い旧アニメ版の作劇はまともであり、だから旧アニメ版は面白かった。

 実写版も同様の作業をした。漫画版の設定を尊重しつつ、「そういう展開にするためにはどういう段取りが必要か」と逆算し、実写版のキャラクターを肉付けし(例えば漫画版や旧アニメ版ではほとんど生かされることのなかったセーラーVの設定が、実写版では重要な意味を持って使われていた)、漫画版で描かれなかった穴を埋めていく形でストーリーが築き上げられていた。
 原作が完結していたからこそ出来たこと……というか、「原作が完結している以上やって当たり前のこと」をちゃんとやったのだ。

 ……ところがこの新アニメ版は、それを全くやっていない(^^;)。
 「原作を尊重する」とか「原作に準拠する」というのは、まあ、いい。しかし漫画版は、旧アニメ版と並行して連載されていたからこそ意味があった(漫画で描かれていない部分を、読者はアニメで見て補完していた)のであって、漫画版そのままにアニメを作ったら、アニメとしてはスカスカでグダグダの作品になるしかない。

 今回、ブラックレディに対してセーラームーンが、「まもちゃんを独占しようとするあなたの愛は、本当の愛ではない」と訴える。自分もまもちゃんを独占したくてちびうさに嫉妬していたから、それが分かる……というのだ。そして、本当は私はあなた(ちびうさ)が大切だった、と。
 全然説得力がないし、ドラマとして盛り上がらない(^^;)。「実はこうでした」と台詞で言うだけで、実際には今まで「うさぎがちびうさを大切に思ってきた」というエピソードは1つもなかったもんな。
 これは「ドラマ」ではなく「説明」だ。

 プリンスデマンドも、同士がどうのとか弟がどうのとか色々言っていたが、それらはすべて「説明」にすぎないから、彼が何をやっても言っても全然盛り上がらない。

 ……ひでえアニメ(^^;)。

 ウィキペディア。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%B0%91%E5%A5%B3%E6%88%A6%E5%A3%AB%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%B3Crystal
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