新聞記事より
場所;石川県白山市 白山のふもと
誰が;山口清志さん(84)現在金沢市在住
写真の山小屋は、白山市の白山の麓にあり山口さんはここで生まれて育った。
そもそも「出作り」というのは、焼き畑農業でヒエやアワ等の食料となる雑穀を
育てて、養蚕や炭焼きなどをして現金収入を得て暮らす山の民の生活様式。
石川県や福井県では昭和30年代まで見られた。白山麓の出作り発祥血とさ
れる旧白峰村の小屋と金沢の自宅をほぼ毎日行き来して、名残の生活を続
ける最後の世代だ。
よほどの悪天候でない限り、毎朝午前7時に軽自動車のハンドルを握り、自
宅を出発する。市街地を抜けて、青い山並みを目にして、いくつものトンネルを
抜けて車1台がやっと通れる未舗装の林道へ。雨水が走りでこぼこになった
路面が続く。片道1時間半。「もう何十年もかけて通う道。目をつむっても来ら
れる」と笑う。
清志さんは9人兄弟の長男に生まれた。出作りには、雪解けとともに迎える農耕
期に集落に帰る「季節出作り」と、冬も出作り先で暮らす「永住出作り」がある。
清志さん一家はかつて、昭和50年代にダム建設で水没した集落から徒歩で
二時間、二つの峠を越えた八キロ先の山中へ季節出作りに通っていた。
標高720メートル。川べりのわずかな平地にある築百三十年近い出作り小屋は
木造二階建て三階造りで延べ百五十平方メートル。清志さんの祖父が養蚕用に
建てた。たくさんの蚕を飼う大蚕養で、年間に当時の平均家庭の五倍にあたる
百貫目(約四百キロ)の繭を製造していた。光沢があり、伸縮性に富んだ旧
白峰村の生糸は石川県で加賀絹、福井県で羽二重の原料として重宝された。
石川県白山麓民族資料館(白山市)の山口一男館長(65)は「県内で出作
り先に現存する唯一の出作り小屋。文化財に相当する価値がある」と話す。
茅葺きだった屋根は22年前にトタンぶきに替えた。かつては小屋に隣接して
母屋もあった。
「明けてもくれても仕事ばかり。勉強は嫌いだった」清志さんは尋常高等小
学校を卒業して二十歳まで炭焼きをしたあと、金沢営林署に入って十五年
ほど国有林の管理に携わった。それから金沢に出て製材や建築関係の
仕事に就いた。ダム建設を機に金沢に家を建てたが、「都市のようなわずらわし
さがない」と休みのたびに山に帰った。
最後に勤めた鉄工所を63歳で退職し、今日まで21年続く町と山との二重
生活が始まる。
清さんによると、焼き畑は場所選びが大切だという。「日あたりが良くて、土
の肥えた場所を、生えている木や草をみて選ぶ」伐採した斜面に雑木を積み並
べて上方に火をつけ、木の棒の先端にヘラがついた「いぶり」と呼ばれる道具
で、火勢を調整しながら火を下方へと移し、落ちた灰をならしていく。作物の収
量に直結するこうした技術は一家相伝で「見よう見まねで覚えた」十メートル
四方ほどの畑には十月にダイコンの収穫を控える。山口館長から「出作りの
資料を残したい」と頼まれ、十五年ほど前からは昔のようにヒエやアワも育てて
いる。
春夏二回の焼き畑に加え、屋号にちなんで「清四の山」と呼ばれる所有山林の
スギの枝打ちに林道添いの草刈、山菜やキノコの採取、ナメコの栽培と山仕事
に忙しい。数年前までは小屋に二、三週間泊まりこむこともあった。現在、テレビ
はなく、ラジオは壊れたまま。妻が付き添うこともあるが、一人でも「寂しいと思っ
たことはない」と話す。
出作りの名残さえ消えゆく時代の流れは「しかたがない」と受け止める。金沢で
一緒に暮らした清志さんの父親は、八十穴才dふぇ亡くなる二年前めで山に通った。
山の緑が好き。山のもんは何でも好き。山に行くのは「自分のうちに來るような
気がするわい」」
清さんの思いは、その一言にすべてが集約される。
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