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2015年09月17日10:33

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改めて述べる憲法9条と集団的自衛権行使についての私見と自論

国会外では抗議 国会内は怒号
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3620077





合憲だとか違憲だとか色々と騒いでいるが、ここでもう1度憲法第9条および(個別的・集団的)自衛権の定義を見直してみる。

そこではなるべく単純解釈(条文の文章通り)のシンプルな解釈に趣きを置きながら見直してみようと思う。

・憲法第9条
第1項
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。

これをシンプルに解釈すれば、

日本人は皆が楽しく穏やかに過ごせる平和を望み、争うことと力による威嚇、力の行使(ここでは暴力)は平和につながらないから、世界の争いを解決する方法としてはずっとやらないよ」
「そのために、軍隊は持たないよ。そして、戦うこと(戦う権利)は認めないよ」

と解釈できる。

ここで、「自衛権」について簡単に説明する。

自衛権・・・急迫不正の侵害を排除するために、武力をもって必要な行為を行う国際法上の権利であり、自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利である。
自国に対する侵害を排除するための行為を行う権利である個別的自衛権と自国を含む他国に対する侵害を排除するための行為を行う権利を集団的自衛権の2種類に区別される。

この「自衛権」をシンプルに解釈すれば.、

「いきなり外国が攻めてきたときに、戦って守るという権利」
「日本が攻められたときに戦って守るのが個別的自衛権。日本と日本以外の国がその他の国に攻められたときに戦って守るのが集団的自衛権。」

と解釈できる。

よって、ここから導き出せることは、「例え自衛であっても戦うことが平和につながらないから、力は持たない戦わないよ。」になるはずだが、「万が一日本が他国に攻められたとき自分を守る為の力が必要だ。だけど、本来戦うことは平和につながらないから、その力は自分を守る為だけに使うよ。(所謂、専守防衛)」

つまり、「平和=無抵抗ではない」ということ。

だから、「自らを守る為だけに力を持ち、自らを守る為に力を抑止力として使うよ」というのが、「例外的に力を持っていい=戦力の不保持の例外」と解釈できる。

これが今までの日本のスタイルで、ここまでは実際問題を鑑み、個人的にも合理性を感じるので異論はない。

しかし、現在政府が取ろうとしている舵(進もうとしている方向)である集団的自衛権の行使は「日本の友達(友好国)がその他の国から攻められそうだから、日本も力を貸すよ。そのために日本の力を使う(戦う)よ。」と言っている。

これは憲法9条や個別的自衛権とは真逆のスタイルだ。

こうしてみると問題点は実にシンプルだ。

現在の憲法のままで集団的自衛権を行使できるようにしようと考えているのだから、それは批判されて当然だ。

しかし、私は集団的自衛権の行使自体が「悪」だとは思わない。
「現在の憲法に従う限り」集団的自衛権の行使はやってはいけないと言っているだけだ。

つまり、集団的自衛権を行使できるようにしたいのならば、まず「憲法を改正することが大前提」だと考える。(ここまではよくある意見だと思う。)

自衛隊は専守防衛、個別的自衛権は日本のみが被害を受ける場合という条件付きで限定的に(半ば温情的に)認められているのだから、その条件が満たされなければ認められないのは言うまでもない。

となれば、どうしても集団的自衛権を行使できるようにしたければやはり憲法を改正するしかない。

私は憲法に限らず、法律は時代によって変化(改正)させるべきものであると考える。
現に憲法以外の様々な法律はどんどん改正されまたは新設されている。
であるならば憲法も例外ではない。
憲法だって重要性は他の法律よりも優先するがルールに変わりはないのだから。
その時代にあった憲法が必要であるはずだ。
いうなれば、現在の憲法は約70年前に改正された古いルールだ。

極端な話、憲法が今のまま改正されず100年後も通用するかと思えば、そうは思わない。
何故なら憲法改正の流れを見ると大日本帝国憲法が約65年で日本国憲法に改正されているからだ。
その日本国憲法が改正されて約70年なのだから、70年前の古い憲法のままで何とかしようというのがそもそもおかしい。
70年という月日を考えれば時代は明らかに変化したし、そろそろ憲法改正をしても時間的には決しておかしいわけではない。

政府もそういったところを素直に伝えて、説明すれば賛同する国民も少なからずいるのではないかと思う。

現在の憲法下のままでの無理な解釈変更や集団的自衛権の行使は本末転倒で自分で自分の首を絞めることになる。

そして、これだけ憲法の専門家が現在の憲法下では集団的自衛権の行使は憲法違反、つまり「やってはいけないよ」と述べているのに、国会議員(総議員)の3分の2以上の賛成を得られない、国民投票で不信任になるのを恐れて、小手先の解釈だけで集団的自衛権を行使しようとする政府の姿勢は、まるで幼児がだだをこねているようにしか見えない。

憲法学者も何も集団的自衛権が絶対的に行使できないと述べているわけではない。
集団的自衛権を行使したければ改憲すればよいと述べている。
改憲自体も憲法も96条で認められている。
それを無視しては、憲法(法律)とは何なのかと言われてしまう。

憲法改正が国民の賛同を得られず実質的に困難だとしても、理論や手段として合法的に改正する方法が認められているのだから、安倍政権は正々堂々と憲法96条で勝負するべきだ。

その勝負に勝てるように集団的自衛権の必要性や合理性を他者に説明すればよいし、そこに力を注ぐべきであり、あくまでも「現憲法下」において集団的自衛権行使容認を実現しようとすることは誤りだ。

個人的に、もしこのまま小手先の解釈で集団的自衛権を行使したならば、「法律の趣旨なんて文字になっていないのだからは無視しOKだよね。条文に規定されていない禁止規定はやってよい。」、「憲法という国家最大のルールを小手先の解釈で勝手に変えることができるなら、その憲法以下の法律も小手先の解釈で勝手に変えていいよね。」ということになってしまう。

つまり、法律が形骸化(形だけのものになる)し、法律が法律でなくなる。

適切な手続き(憲法改正)があるのに、賛同を得られないから適正な手続きを経ずに政府の目指している目的を達成するというのは批難されて当然だ。
それに比べれば、極端な例だであり勿論許されないが、個人の犯罪(ルール無視)なんて可愛く思える。
国家が率先してルールを無視しているわけだから。

憲法改正や集団的自衛権の行使をしようとすること自体の是非は時代背景や世界情勢で善にも悪にもなるが、例え過酷でも適切な手段が用意されているにもかかわらず、自分たちで認めて運用している憲法の理念や具体的規定に反してまで無理矢理解釈だけを変えることは悪だと思うし、後世に渡って悪と言われ続けるだろう。

現在の政府が恣意的(自分勝手)に憲法を改正しようとしているかは我々国民が判断する。
だからこそ政府は堂々と憲法改正を掲げ、国民にその是非を問うべきだ。

繰り返すが、集団的自衛権が行使できるように憲法を改正すること自体は「悪」ではない。

時代の変化、世界情勢における集団的自衛権の必要性をしっかり説明する方が多少遠回りになっても最終的に国民の賛成を得やすいのではないかと主張しているだけだ。

身近な例で例えれば、両親から「例え友達を守る為でも喧嘩してはいけない」、「自分を守るためにどうしても喧嘩しなければならないときには仕方ない」、これが個別的自衛権。
「しかし、喧嘩が弱いのでは自分を守れないからトレーニングはしてもよい」、これが自衛隊が合憲であるということ。

しかし、上記の言いつけを破り友達を守る為や自分勝手に喧嘩してしまう。
これが集団的自衛権の行使だ。

これでは判断能力や責任能力が完全ではない子供と一緒だ。

だが、親によっては「友達を助けてあげる場合は喧嘩しても仕方ない」、「弱い者を助ける、困っている人を助けるならばたとえ自分のためでなくとも喧嘩は仕方ない」と考える者もいる。
そういう風に親の言いつけを変えることは決して「悪」ではない。
しかし、親(憲法)の言いつけを変更するということは、法に当てはめれば憲法改正であることは言うまでもない。

集団的自衛権の行使が日本にとっては勿論、世界にとっても正しく平和につながるというのなら、堂々と憲法改正の必要性を訴え、国民投票を実施すればいい。
憲法改正が本当に日本や世界平和につながるのなら、日本国民はきっと納得するはずなのだから。
日本国民はそこまで徹底して丁寧に説明されても理解できないほど馬鹿な人種ではない。

その人種を代表している国会議員も日本国民なのだから。

最後に、

現在の憲法が例え時代や国際情勢にそぐわないものであっても、それが我が国の最高法規であり憲法改正しないならば従わなければいけないのではと考える。
「悪法と言えども法である」という言葉があり、我が国が法治国家であるように。

そして、現憲法下では時代や国際情勢にそぐわない,国家が破綻するものであるならば、政府解釈などという小手先の解釈変更ではなく、早急に憲法の一部または全部を改正するのが妥当であるし、それが筋であると考える。

政府が主張する「国家が破綻する蓋然性」や「有事が起きたときに誰が責任を取る」ということは検討する余地が皆無であるとは思わないが、「責任」が憲法よりも大きくて守らねばならぬことなのかは疑問が残る。

ミイラ取りがミイラになる主張に感じるし、「憲法の為に責任がある」のではなくて、「責任の為に憲法がある」ような、本末転倒な主張に感じる。

やはりどうしても集団的自衛権を行使できるようにし政府の主張を正当化するためにも憲法そのものを改正したらいいのではと思う。

また、政府は「想定外があってはならない」と言う言葉をよく使用するが、私はその言葉自体が「矛盾」していると感じる。

何故なら、「想定外があってはならない」とは反対解釈すれば「常に想定内でなければならない」ということであり、「完璧」であるということ。

世の中においてそう簡単に「完璧」などというものは存在しない。
完璧であれば、それ以上は無いからだ。
そこにさらなる工夫や向上・改善の余地は無く、何も立ち入る隙がないと言う事だからだ。

政治は常に相手(国)がいる。
その相手が何を考え何を実行するのかはこちらには分かり得ない。
つまり、そこから先がどうしても「想定外」になる。

もし想定外が有り得ない状態(完璧な状態)にできるとすれば、日本以外の全ての国を滅ぼしでもしない限りそれは実現しない。

科学者の永遠の命題である「今まで存在した何物よりも素晴しくあれ、だが、けして完璧であるなかれ。」と同じことだ。

そして、政府は国民や反対勢力に対し「想定外があってはならない」と言うしかないし、私からみてもその回答自体が既に「想定済」なのだ。
だから、説得力が足りないと感じる。

憲法解釈を変える(国の態度を変える)という重大かつ重要なことを決めるのだから素直に「集団的自衛権を認めるように憲法を改正しないと時代に合わないし、今後の国際社会においては必要なことだ。また、そうしないと日本もアメリカに睨まれ、中国や北朝鮮に舐められてしまう。」と、政府がハッキリ宣言すればいい。

そうすれば、なまじ小手先の政府解釈を強引に変更し数多くの批判を受けるよりは遥かにマシだと考える。
そして、現在よりも反対する国民が減少し、納得する国民が増加すると思うのは私の気のせいだろうか。

勿論、中国や北朝鮮からは批判を受けるだろうが、それは政府お得意の「強行姿勢」で「内政不干渉」とあしらえばいい。
とは言いつつも、現憲法を作ったのは日本に集団的自衛権行使を容認できるように要請しているアメリカであり、かつてのGHQ総司令官であるマッカーサーはさすがに70年後(現在)の日本の現状までは想定できず「想定外」だったようだ。
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