常に優しき人となれ
私の願いはいつも同じです。「人に対して常に優しくありたい」優しい人でありたいと思っています。
ときに勇気のある言葉を吐き、時に勇気のある行動をし、時に力強い決断をしなければならないこともあります。それもこれも、その底には優しさというものが流れています。
より多くの人々に幸福になっていただくために、より多くの人々に幸せになっていただくために、そうした強い言葉も、勇気の言葉も、力の強い行動も起きてきます。
優しき人とならんとしているが故に、そうした気持ちも湧いてきます。
ただ、私は皆さんに、そういう難しいことをお願いしようとは思いません。私が皆さんに、かくあって欲しいと思うことは、「常に優しき人となれ」ということです。
仕事の中に埋没している時にも、家庭の中で苦しんでいる時にも、私は皆さんに、この言葉を思い起こして欲しいのです。「常に優しき人となれ」という言葉を…。
人間は、ともすれば、当然と言う気持ちで、自分だけが豊かな暮らしをしたり、自分だけが人々に誉められたり、そうした自分だけが満足のいくような人生に、あぐらをかきがちです。
しかし、その途中において、傲慢になったり、他人に対して厳しくなりすぎたりしている自分というものがあるのではないでしょうか。
「常に優しき人となって欲しい」という、この私の願いは、皆さんにときおり思い出されて良いことだと思うのです。
私は、人間はいくら優しくても、優しすぎると言う事はないと思います。
いくら優しく生きても、それで充分だと言う事は無いと思います。
この文章読んでいる皆さんも、いつか必ず地上去っていきます。何年か何十年か後には、必ず地上を去ることになるのです。この地上するときの気持ちが、皆さんにはわかるでしょうか。
それはちょうど、地上を離れて、天空に架かる星となるような気持ちです。
地上からはるかに離れていって、星のひとつとなるような気持ちがするのです。
地上を離れ、何百メートル、何千メートルと高いところに登っていくにつれて、今地球が小さく見えてきます。かつて自分が遊んだ広場、自分が住んだ家、友人たち、いろいろな人たちの思い出が、遠くに、小さく小さくかすんで行きます。森や川や山や、そうしたものがかすんでんで見えてくるのです。
こうした時に、皆さんが思う事は、「ああ、もっと多くの人に、優しく接していればよかった」ということなのです。そうした瞬間が、この文章を読んでいる皆さんに必ず訪れることを私は予言しておきます。
その時に、皆さんは、「懐かしい人々に、1つでも多くの愛を与えることができたならば、1つでも多くの優しい言葉を与えることができたならば、どれほどよかったか」と思うのです。
「常に優しき人となれ」ーーーその言葉を心の内に繰り返しながら生きていくときに、皆さんは、この地上を去る瞬間のことを脳裏に描いているのです。
人間は、母の胎内に宿り、この地上に生まれ、幾十年かを生き、その間に様々なドラマがあり、やがてまた地上去って還ってきます。
地上という世界は一時の思い出です。
あの修学旅行のように、あの楽しかった学校生活のように、一時の思い出であり、一時のメルヘンでもあります。
皆さんは、そうした、つかの間の人生を地上で生きているのです。
そうであるならば、何ゆえに、それほどまでにギスギスとした生き方をするのですか。何ゆえに、それほどまでに厳しい人生を生きるのですか。何ゆえに、それほどまでに他人に対し厳しく接するのですか。
やがて去っていく世界であるならば、できるだけ優しい思い出を残していこうではありませんか。自分が人にそうされたいが如く、他の人にも優しくあろうではありませんか。
人間が一番嬉しい瞬間は、人から優しくされた瞬間では無いでしょうか。優しくしてもらった瞬間では無いでしょうか。
さすれば、自分もまた、
常に優しき人となろうではありませんか。
常に優しき人として、生きていこうではありませんか。
どうでしょうか、皆さん。わたしの言ってることの意味がわかるでしょうか。
慈悲魔という言葉で表されるように、ときには、優しすぎるための弊害が起きることもあります。優し過ぎることが人をダメにすることもあります。
しかし、私は思うのです。
やや優しすぎるくらいで、人生はちょうど良いのです。
この世の中のギスギスした感じ、からっ風が吹き抜けていく感じをなくすには、人に対して優し過ぎるくらいで良いのです。
そうでなければ、どうして素晴らしい世界となっていきましょうか。優しさという失われた価値を、一日も早く発見してほしい、取り戻してほしいと思うのです。
大川隆法
「愛の原点」より
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