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2015年09月06日18:45

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「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉【151】 2015/9/6(日) 人を愛するとは?」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16007 (写真入り記事)

9月になり、第一週目の日曜日の礼拝でした。

別に、新年度だろうが、月が変わろうが、何が変わるわけではありませんが、9月になって、子供たちの夏休みが終わり、新学期が始まり、子供たちの状況は大きく変わり、雰囲気も変わりました。

牧師として、教会に来られる方々を愛するとはどういうことでしょう。ふと考えてみました。

その人の存在を喜ぶことだと思います。

ここのところ、フランクリン・グラハム大会のことで、100件以上の教会を回っていますが、教会の街の雰囲気、建物、そして、応対して下さる牧師先生やスタッフの方々の対応で、ほぼその教会の雰囲気がわかるような気がします。

ある教会では、突然訪問した私たちを下にも置かない歓待ぶりで迎えて下さいます。しかし、ある教会では、とても迷惑そうで、嫌々、形式的に対応する教会もありました。

私や私たちの存在を喜んで下さっていると感じるような応対をして下さると、愛されているんだなーと感じます。その教会に通っている信徒さんは幸せだなーと感じます。

私は、教会に来られる方々の存在そのものを喜んでいます。

その人が、何をしてくれるからとか、迷惑をかけないからとかではなく、無条件でそのような気持ちで迎えています。

それは、存在を喜んでもらえた体験が愛され、大切にされていると感じられて、とてもうれしかったからです。

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12)と聖書は語ります。

教会で、その人の存在を喜んでいると、その方が礼拝に来られるととてもうれしくなります。一緒に愛する主イエスを礼拝できることは幸せです。

しかし、その人が礼拝に休んだとしたらどうでしょう。とても寂しくなります。

牧師になりたての頃、一週間前には、入りきれないくらいの人が来られたのに、今週は半分以下の人しか来られなかったことがありました。

「何か嫌な思いをさせただろうか?」
「説教が良くなかったかな?」
などと、思い悩んだことがあります。

教会には、喜びと解放と自由があるはずなのに、心が暗くなりました。

今は、
「今日は疲れて教会に来たくない気分だったのだろうか?」
「体の調子が悪いのだろうか?」
「忙しかったのかも知れない!?」
などと考えて、自分に目を向けるのではなく、その人に目を向け、心配し、お祈りをするようになりました。

そうしたら、教会員が礼拝に来られたら最高にうれしいですが、教会を休んでも、その人のために祈ることで、その人の立場に立てるようになり、存在を喜びつつ、「来週は教会に
来られますように」とお祈りします。

夫婦や家族が愛し合うのも同じです。

お互いの存在を喜び、感謝することです。しかも、無条件にそれを行うことです。

夫は稼ぎがいいので感謝しているとしたら、夫が病気になって寝込んだり、交通事故にあって障害を持って働けなくなったとしたらお荷物になります。

特に家族は、無条件に相手の存在を喜び、感謝したいものです。

日曜日の夜は、毎週サザエさんの番組が行われますが、家族の平凡な幸せを教えてくれます。

家族が、お互いに無条件で喜び合い、感謝し合うなら、家庭は天国になります。

世の中でどんなにつらいことがあっても、不公平な対応をされたとしても、家庭は、それらを忘れ、ホッとし、明日への活力を与えてくれる場であってほしいものです。

それは、あなたの心がけからはじまります。

仮に、今はそうは思えなくても、奥さんやご主人、お父さんやお母さん、子供、兄弟などに感謝しはじめて下さい。

それが愛するということであり、愛は、愛した本人をまず幸せにし、愛された相手を幸せにし、家庭全体を幸せにします。

これから家族で夕食を食べます。家族に感謝し、文章を読んで下さるみなさんに感謝をいたします。

一日お疲れ様でした。おやすみなさい。

また明日会いましょう。

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