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2015年09月04日12:24

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ファイターズの苦労人

 ファイターズの本で久々に懐かしい名前を発見、ファイターズの右腕坂巻明です。84年の1シーズンだけ規定投球回数を達成し、その後鳴かず飛ばずだった選手です。彼は物凄い苦労人でした。

http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_june/KFullNormal20080603153.html

【日本ハム2−0ロッテ】つらいのは慣れている。打線の援護は2点だけ。それでもひげ面の背番号47は、淡々と投げ続けた。この試合126球目。最後の打者、ロッテ・山本功児一塁手を打ち取り、柏原純一一塁手から記念のウイニングボールをもらって、初めて笑顔になった。「ああ、完封したんだなあ。長かったなあ」。

 3安打4四死球4奪三振でプロ8年目にして初完封勝利を収めたのは坂巻明投手、29歳。8連勝中の好調ロッテを勢いを止め、8連敗中の日本ハムを救った苦労人らしい、派手さはないが粘りの投球をみせた。

 6回まで毎回走者を許し、中盤の3イニングは先頭打者を許したが、これまでの20試合、すべて中継ぎ登板で修羅場をくぐり抜けてきただけに冷静だった。「ぼくは一生懸命やるしかない。打たれたらどうしようとか考えてられない」と坂巻。ストレートは130キロ台。打ちごろのボールについつい強引になるロッテ打線を決め球のシュートで料理した。

 初めてもらう監督賞の賞金10万円。専業主婦が多いプロ野球選手の妻だが、坂巻夫人は家計を助けるため働かざるを得なかった。夫人の苦労に報いる金一封を握りしめ、「妻に渡します」と坂巻は感無量だった。

 父親が倒れ、野球を辞めなければなくなったのが、青山学院大2年の春。リーグ戦で1安打完封をやり遂げた直後だった。突然、人生をかけていたものを取り上げられた青年は途方に暮れた。会社に就職するもその後青果市場などで働くことに。おじの経営する病院で臨床検査士を目指して勉強しようと決意するまでにはしばらく時間がかかった。

 野球はあきらめたはずだった。しかし、そう思えば思うほどボールとグラウンドの土のにおいが恋しくなった。周囲の勧めもあって日本ハムのテストを受けたのは77年。2年のブランクはあったが、制球力の良さを買われて見事合格。晴れて夢のプロ野球選手となった。

 しかし、採用は打撃投手として。契約金なし、年俸130万円の“バッピ”は2軍戦にすら登板機会が与えられずに、来る日も来る日も打たれるためだけに投げ続けた。

 「いつか後楽園のマウンドに」。夢だけは捨てなかった。時間をみつけては走り込みで下半身を鍛え、試合で投げるためにはとウイニングショットのシュートに磨きをかけた。ようやくイースタンリーグで投げられるようになったのは81年のこと入団から5年の歳月が流れていた。

 そして82年、開幕早々けがで戦列を離れたストッパー・江夏豊投手に代わって、初の1軍昇格。坂巻のプロ野球選手としての本当の第一歩が始まった。

 初完封勝利を挙げた84年、坂巻は7勝をマーク。防御率3・33で投手成績4位となった。チームは9年ぶりの最下位にあえいだが、年俸480万円から133パーセントアップの1120万円に。8年かかってたどりついた夢の大台だった。

 坂巻が最後の意地をみせたのが、88年。7勝を挙げた翌85年に右ひじを故障。2年間1軍で登板機会がなく、日本ハムを自由契約になった。もう一度、原点のテスト生となって臨んだ、ロッテの入団テストで合格した。1軍登板はなく1年で再び戦力外通告を受けたが、その後もロッテで打撃投手、スカウトなどを務め、一度野球を断念した男の“プロ野球歴”は続いた。


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