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2015年08月29日02:37

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薩長連合 長州の薩摩への憎悪の現実 今も続いているかもしれない

1863年に会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変で長州藩は京都を追放され孝明天皇をもう一度長州陣営に引き込もうと画策し、京都蛤御門付近で長州藩兵が、会津・桑名藩兵と衝突。禁門の変になるが一時は長州藩が優勢だったが、薩摩藩が援軍として会津・桑名藩と協力して長州藩兵を駆逐する。

この一件が相当、しこりになった長州藩士は、履き物に「討薩賊会奸」と書くまでになっていた。

京都での政治活動が活発で、朝廷の公家たちとの政治的接触で、多くの長州擁護派の公家の支持を得ていた。これに危機感を持ったのが薩摩藩だった。同じ尊皇攘夷論だが、長州の激しい政治運動に、長州藩は京都に独自の政府機関を設けるのではと猜疑心を持ち、一方洛中の警護を任せられていた佐幕派の会津藩も、一連の長州藩の動きを警戒していた。ここで共通の敵視政策で一致した薩摩藩と会津藩が同盟を結びクーデーターで長州藩を京都から追い落としてしまう

翌年に禁門の変で長州藩は洛中に攻み入り、御所の天皇を薩摩&会津から奪還し、勢力挽回をせんと蛤御門に殺到した。当初は蛤御門を警備していた会津藩に長州藩は優勢だったが、駆けつけた薩摩藩の急襲を受け長州藩側は惨敗し、長州藩の主だった勤皇の志士たちは斃れ、その後の残党狩りも峻烈を極めた。この経緯があって長州藩は薩摩藩と会津藩を憎悪する事になる。

長州藩は、来るべき対幕戦争に欠くことのできない新式の洋式武器の購入ができずに困っていた。そこで、坂本龍馬は、彼が長崎にいるグラバーなどの英国商人から、長州藩のためにそれら兵器を購入するに当たり、薩摩藩の名義を公然と使うようになった。これにより長州は軍備を着々と充実させるのに成功し、龍馬の仲立ちがなければ現実的に長州と薩摩の連合は難しい状態だった。だから坂本龍馬の名が歴史にクローズアップされることになったのだが

と言って表面的なもので長州は本当に薩摩と心から和解したのだろうかexclamation & question私は大きな疑問を感じる。八重の桜でかなり述べたが長州の会津への執念。ドラマでは薩摩に置き換えられていたが。また西南戦争に追い込んだ政治的手法を見る限り討幕の便宜上の連合で憎悪は続いていたし、今もある気がする。

だからフクイチ事件への政府、当時の維新志士の末裔と名乗る(事実、井上聞多=馨の一族の末裔)現総理の過酷なまでの仕打ち、続いて桜島、霧島、阿蘇山と危ない火山が多いにも関わらず川内原発稼働などを打ち出したのは偶然とは思えない。その中には戊辰戦争、西南戦争が終わっていないDNAが存在するのが杞憂であれば良いのだが
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