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2015年08月27日02:31

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長州と薩摩、不倶戴天の相手同士に同盟を組ませた奇想天外な坂本龍馬

長州藩は、八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変など国内の争いでどんどん追い込まれていきます。さらに孝明天皇の怒りを買い、第一次長州征伐へと苦境に追い込まれていた。

坂本龍馬は脱藩者であったためしがらみにとらわれず、第三局の立場で、立場の違う人々と交流することができた。大きな後ろ盾がないかわりに、自由に立ち回ることができた利点があった。だから当時、不倶戴天の関係にあった薩摩と長州の手を握らせるという離れ業を考えつけた。

幕末の両藩は、どちらも幕府に対抗する意向を持ちながらも、立場や路線の違いから、戦い、憎しみ合っていた。薩摩藩は公武合体の立場から徳川幕府の開国路線を支持しながら幕政改革を進めようと大人の戦略を持ち、長州藩は急進的攘夷論を主張し、徳川幕府と敵対していた。

文久3(1863)年8月18日に薩摩藩と会津藩は京から長州藩を追放します。いわゆる八月十八日の政変があった上に元治元(1864)年には禁門の変で戦い、薩摩が長州を敗北に追いやり犬猿の仲どころか、殺し合っていた。

本気でくっつけようとする龍馬はただ者ではない。龍馬の信念とアイディアと行動力には驚嘆する。坂本龍馬は薩長両藩を和解させるために奔走し薩摩藩と長州藩の双方に利益をもたらすアイディアを持ちかけた。

長州藩は、幕府との戦いに備えて最新鋭の武器が必要だった。しかし、外国との貿易は禁じられている。そこで亀山社中が薩摩藩名義で武器を購入し、それを長州藩に売った。銃の数で7000挺以上。一方、薩摩藩は兵糧米が不足していたので、長州藩が薩摩藩に対して米を援助した。
これらの計画と実行を坂本龍馬が亀山社中で行なった。

幕末でも常識にとらわれずに、常に面白いもの新しいものにひっぱられていった坂本龍馬の動きは、どれほど異端なものかは想像を超える。常識にとらわれない新しい視点で世の中を見渡すことが、新しい未来を切り拓くことにつながる。これは現代にもつながるのだが、残念ながら龍馬的人物が現れないため日本の洗濯ができないジレンマがある

そして第二次長州征伐を前に、坂本龍馬の仲介により、薩摩の西郷隆盛・小松帯刀と、長州の桂小五郎が京都で密会、同じ倒幕の目的を果たすため、ついに薩長同盟が結ばれた。
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