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2015年08月20日17:12

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民主主義を求めて 35.



民主主義を求めて 35. 政治学者 丸山眞男 (レジュメ仕様・≪ ≫私による注・書き込み「 」私による付記あり)
 
「現代政治の思想と行動」 丸山眞雄 未来社(新装第八刷より)

p.219

 本署を通読し……、ラスキ教授が、……更に一歩「左」に動いたことである。

 1930年代のファシズムの世界的な台頭が、あの教授の三部作 Democracy Crisis. The State in Theory and Practice. The Rise of European Liveralism.)に於ける多元的国家論からマルクス主義への急角度の展開をもたらしたとすれば、今次大戦に於いてソ連の演じた巨大な役割が本署執筆の心理的背景をなしていることは否定できない。

 スターリングラード「英雄的叙事詩」、「ドニエプルの大ダムを犠牲に供した昂然たる決意」を語る際の間隙的筆調からも窺うことが出来る。

 ……ロシア革命に対して相当批判的であり、第三インターの態度に対し時折攻撃の矢を放っているが、ここでは、ラスキは徹頭徹尾ボルシェビズムの弁護人として現れている。

 例えば The State in Theory and Practice に於いては、ドイツに於けるファシズムの制覇を許した事情の裡にワイマール革命の不徹底と並んで、ドイツ共産党の社会民主主義に対する激烈な攻撃を主要な因子として数えているが、本書に於いては、もっぱら社会民主党の煮え切らぬ態度を弾劾している。

 また本書に於ける英国労働党の批判も峻烈を極め、その「何とか切り抜けていく」政策(”mudding−through”poricy)の戦後における必然的破綻を説き、労働党対して純乎(?純然)たる哲学の上に立たざる限り、1918年以後の自由党の運命を辿るであろうとして、その分裂の可能性をすら予想しているのである。

 現下世界情勢に於ける英ソの厳しい対立関係を前にして、この他ならぬ労働党の中央執行会議議長は果たして如何なる感慨を以て、自党出身の外相ベヴィンとソ連モロトフ外相との厳しい応酬を見守っているのであろうか。我らの関心を唆(サ・そそのかす)ること切なるものがある。

p.220

 ここで忘れてならぬことは★ラスキがコミュニズムをどこまでも一つの「信仰」として、これを★「エトス」の面から捉えていることである。★ここには人間の意志から独立した物質的過程の「鉄の如き必然性」というような言葉は一語も語られていない。そこに峻烈に主張されるのは、もっぱら★「価値体系の再建」であり★「精神的救済への渇望」であり★「個人的自我の実現」であり「人間の裡なる至高なるものへのアピール」である。 

 
 大衆の物質的福祉の保証は★ただ彼らの人格的内面性の実現の前提としてのみ意義づけられているのである。
   従ってそこでの社会主義は終始一貫「目的論的」であり、生産力の側面よりもヨリ多く「消費」−「需要」の側面から説かれている。

これはラスキが依然として★英国の思想的伝統の強力な支配の下に立っている事を物語るではないか。だから多元論よりマルクス主義への発展は、彼の政治的立場や、現実の理論的分析の仕方の変化を示すものであっても、ラスキの信条を規定している「エトス」は殆ど変化していないのである。
 
 彼が★「出来うる限りに広い範囲に於いて需要を満足させるのが、即ち善である。≪生命の肯定≫ そうして不断に増大する需要の満足絶えず追い付いて行くような制度的基礎の上に立った社会が善き社会である。」というとき、それは「社会的善とは我々の諸々の衝動の動きが充たされた活動の動きが、充たされた活動として現れることによって、我々の本性が統一を達成するという点に存する。Grommer of Poritics.」という嘗ての定義とどれほどの開きがあるだろうか。

 また「グラマー」に於いて★「何物にも吸収されざる内面的人格性」と「自主的な判断」こそ★人間が死を賭して守り通すべきものと述べた、あの根深い「個人主義」にしても、この新著に於いて★「我々には集団に対する義務の他に、我々の内面的自我に対する義務がある。★その義務の尊守を他人に任せてしまうことは、我々の人間としての尊厳性に忠実であることを止めるに等しい。」として以前保持されている。

p.221
 
 ラスキは労働党がフェイビアン哲学を≪虫單・ひとえ、に≫脱出できない不徹底さを難じているが、彼自らは果たしてこの非難を完全に免れることが出来るだろうか。

 本書は、問題へのマルクス主義者のアプローチを示すものだと、著者は断っているにも拘わらず、読者はそこに少なくもマルクス主義者の論理では尽くし得ない幾多の夾雑物を見出さぬわけには行かぬのである。


 A・ジイドをしてコミュニズムへ傾倒せしめたものは、やはりコミュニズムに内在するエトスであった。……の、日記に「★私をコミュニズムに導くものはマルクスではなく、福音書である。」と書いた。≪「解放の神学」・「イエスという男」≫

 ……の、日記には「諸君の説によれば価値ある唯一のコミュニズムは、ただ理論によってしか到達されないというのだ。……確かに理論は有益である。★だが熱情も愛もない理論は、理論が救おうと思っている人々をも傷つけてしまう。……愛によって、愛の大なる要求によってコミュニズムにやって来た人々のみを私は兄弟と感じている。」と誌してある。

 A・ジイドもまた、ラスキと同様に、イエスの歴史的地位のうちにロシア革命とのアナロジーを見た。

★★「コミュニストの同志からキリストを擁護する、擁護しなければならぬと考えるだけでも全く馬鹿げたことに思える。私は司祭や僧侶といった人達からこそキリストを擁護したいと思っているのである。……コミュニストの諸君よ、諸君はキリストの神性を認めないからこそ、キリストを人間として批判しなくてはならぬ。そうすればキリストが紛れもなく諸君の最悪の敵である人々によって、諸君が闘っている権力者によって、富と……、ローマ帝国主義との代表者たちによって告発され、処刑されるに十分な資格を持っていたことを、諸君は確かめ認めるに違いない。従ってキリストは諸君の味方であるということも。」★★

 私はここに、西欧の最も良心的な知識人のコミュニズムに対す接近の仕方に一つの定型といったものを感ぜずにはいられない。

p.222

★彼らをコミュニズムへ導くのは、まがいもなく、キリスト教の普遍的な人類愛、地上に神の国を打ち建てんとする苦痛なまでの内面的要求である。 

★しかも彼らをコミュニズムに単純に走らせぬ処のものも、またキリスト教の教えた個性的人格の究極性に対する信念である。

「私はどんな宣言文であろうと、自分で書いたものでではないものに署名することはことさらに拒むのである。……勿論こうした場合には常にグループを作るということ、……が大事である位は判る。だが、これまでこうした種類の宣言文にして、私が全面的にそのテキストに同意できるような、また、或る点に於いて私の考えていることに悖(もと)らないようなものには、ただの一つも出会わなかったような気がする。」というA・ジイドの恐るべき個人主義は遂に、一時あれほど傾倒したソ連の現実の内に到る処「劃一主義」への危険を嗅ぎ付けねば止まなかった。

 この点「新しき信仰」の集団的性格を最初から承認してかかるラスキとの間には、やはり政治学者と芸術家の違いはあろう。 

★しかし「よく理解されたコミュニズムと、よく理解された個人主義は、本質的に融和しえないものとは思わない。というA・ジイドの幾分不安げな希望的観測はそのままラスキのそれではないだろうか。

 本書に於けるボルシェビズムに対する委曲を尽くした弁護は、或る意味では、ラスキの中に潜む「個人主義」との血みどろの闘いといえないこともない。

 これを単にプチブル根性……。だが少なくもそうした「プチ・ブルジョア性」こそは西欧世界に於ける一切の貴重なる精神的遺産の中核を形成して来たことは否定すべくもない。そこに含まれた問題は今まさに世界的現実に於いてその解決を迫られている。

 よそ事ではないのである。 

(1946年)

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