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2015年08月17日09:25

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第二次世界大戦>飢餓で大々的な人減らし

戦後70年、慰霊の人々の思い
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3568270

以下転載

兵士のうち・・・
戦没者の60%強140万人は餓死であった
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html

1945年
沖縄コザ 子供達
フォト




戦争孤児の狩りこみ
フォト

NHK 特報首都圏 戦争孤児はどう生きた 壮絶な真実の告白 
一昨日見たNHKの報道特集です。
表題から察すると、関東地域だけの番組かと思われます。

歴史の闇の中で、意図的に忘れ去られようとしている悲惨な事実を、しっかりと見据えた番組でした。この国では今、戦前・戦中の現実を知らない世代が人口の大半を占めつつあります。それをいいことに、そんな過去をいたずらに美化しようとする人たちもいます。戦地で命を奪われる兵士たちだけが犠牲になったわけではない。
銃後と呼ばれた後方でも多くの命が奪われた。命を奪われた者だけではなく、家族を引き裂かれ、地獄に落された大勢の子供たちがいた。悲劇は敗戦によって終わったのではなく、その子たちにとっては、戦後と呼ばれる時代もまたその悲劇の延長でしかなかった。

生き残った戦争孤児の方々が、重い口をひらいて、これまで封印してきた現実を語ります。
上野の片隅で、幼い弟や妹が餓死していく姿を今も忘れられない女性。

寒さに耐えかねて、墓地から盗んできた墓標で焚き火をした少年たち。
食料は盗むことでしか得られなかった。
八百屋の店先からトマトをかっぱらい、ボロ服につつんで逃げ出そうとして米軍の車にひかれ絶命した少年。

彼の死を目の前で見て、それ以降いまだにトマトを食べることができなくなった少年。
有楽町のガード下で、大人の売春婦に混じって客を呼び止める幼馴染を見て、思わず声をかけてしまったことを今も悔いている男性。
その14歳の幼馴染は悲痛な表情を見せ、顔をそむけて走り去ったという。こんな子供たちが、公的な統計(1948年、沖縄を除く)だけでも12万人以上いたといいます。実態はもっと多かったはずです。
http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub1.htm (語り継ぐ学童疎開)

冒頭の写真はなんだと思いますか。
当時『浮浪児』と呼ばれた戦争孤児たちが治安維持の妨げになるとして、当時の政府がおこなった少年狩りの写真です。当時は【狩り込み】と呼ばれたそうです。滅私奉公を美徳として国民に押しつけた為政者たちは、その奉公の結果として家族から引き裂かれた子供たちを、まるでケモノのように狩りたてて、こういう形で収容したのです。

こうして収容された少年たちは、政府の手でほとんど無賃金労働にひとしい事業主のもとに送り込まれるか、幸運な者は慈善団体が営む孤児施設に引き取られました。
孤児施設はまだしも幸運だったでしょうが、証言者は語ります。
12人の仲間と一緒に長野の施設に送られた少年を待っていたのは、ばいきんを学校に入れるなという父兄の声、村を歩けば水を浴びせられる日々、そして割り当てられた教室は物置で、その入り口には誰が書いたのか【犬小屋】という貼り紙が。引率した教師はそれを剥がそうともせずに、にやにや笑っていたそうです。

戦前の美しい国の【道徳教育】を受けたはずの父兄たちや教師の実態が、これでした。孤児たちの中には、幼くして教育から引き離されていたために、名前も書けず、九九も知らない子がいたそうですが、奴らに負けないようにするには勉強するしかないんだ、そういう思いで頑張った少年は定時制に進み、大学を出て、教師になったそうです。もちろん、あんな教師には絶対にならないと心に決めて。

哀しい現実ばかりではなかったようです。心あたたまる話は、美しい国の高等教育を受けた連中の中にではなく、名もなく貧しく無学な庶民の、下町の中に発見することができます。以下はある方の投稿記事です。http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3003387.html

★今年70になった私の叔父は戦災孤児です。というと変な言い方ですが、実は私の父やもう一人の叔父(父の弟)とは血がつながっていないのです。私の祖母が東京大空襲の翌日、飯田橋(不思議なことにその一角だけ焼け残ったそうです)という所で近所の子供が焼け出され、孤児になったのを不憫に思って家に連れてきたのだそうです。戦後、養子縁組だか何だかをして(終戦後のどさくさですから)、自分の子供として育てました。
祖母は女手一つで3人の子供を育て、全員を大学まで出しました。実は、3人兄弟の中で、一番の出世頭は、その叔父です(笑)  私の父は生前、酔っぱらうと、「あいつは、血が違うからできが良いんだ」と叔父のことをほめて?いました。別に隠すこともなく、普通にそんな話をする兄弟だったようです。祖母も父もとっくに亡くなっていますから、何でそんなことをしたのかは分かりません。ただ、その叔父は、今でも祖母(本人からすると義理の母)に深く感謝しています。

市井の庶民の心には人としてのあたりまえの倫理観が生きている。それは官製の道徳教育などで与えられるものじゃない。そう確認させてくれる逸話だと思います。

では、戦前のこの国を美化し、そうした見地から【道徳教育】をもちこもうとする人たちは、上述の学童疎開に関する次のような記事をどう受け止めるのでしょうか。   http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub1.htm 

★1. 集団疎開はいじめに最適な環境であった。
(1) 親の面会は制限されていて1学期に1回程度で、親の目が届かな かった。
(2) 手紙は先生による検閲があり、子どもは親に本音が書けなかった。
(3) 先生は強い皇国民の錬成に熱心で、体罰は日常化し、子どもたちに 弱音を吐くことを許さなかった。戦時体制下「欲しがりません、勝つま では」と、耐えることばかりが強いられていた。
(4) 日常生活は四六時中上級生が取りしきる軍隊式集団生活で、上下 の規律が厳しく、下級生は上級生に絶対服従であった。いくらいじめられても先生に告げ口をすれば後で何倍もの制裁が待ち受けていて、怖くて何も言えなかった。
(5)上級生は空腹や家恋しさのストレスのはけ口として、下級生をいじめて楽しんだ。
(6) いくらいじめられても泣いてすがれる母親もなく、登校拒否をする自由もなかった。最後に残された手段は「脱走」しかなかったが、いじめ られっ子には脱走する気力も枯れていた。

★2. いじめの実例
 [仲間はずれ]
*親が面会に来ても、僅かな食べ物しか持ってこなかったので、ボスに献 上する食べ物がなく、ボスの命令で仲間はずれにされた。あの頃、何が つらいといっても、みんなからのけ者にされるほどつらいことはなかった。
*冬になってコタツが置かれるようになると、仲間はずれの子はコタツにあ たることを許されない。寒い夜など、どんな思いで一人部屋の隅に座って いたことであろう。夜寝る時も、みんなと離れて布団を敷いて寝るのである。どんなにいじめられても、その部屋を離れることはできない。大勢の嘲笑 のなかに身の置き所がなく、涙も出ないのである。
 [いじめは遊び]
*仲間はずれにされた子が悲しくて泣くと、女ボスはふとんで巻き、子分に命令して上から踏ませて喜んだ。なんの喜びも楽しみもない世界では、いじめは唯一の遊びになってしま った。
*目隠しをしてコタツの上に座らせ、それを後 から押して突き落とすのである。落とされた 時、声を立てたり泣いたりすると、先生に聞こえるからといって、さらに突いたり着物をひっぱったりして、いじめぬくのである。
*班長の命令で下級生に防空頭巾を前後逆さまにかぶせ、目隠しボクシングをさせて楽しんだ。はでに打ち合いをしなかったから気に食わないと、コタツで焼いたナイフを額に押しつけた。
*捕った蚤をビンに入れておいて、ふとんでスノコ巻きにした生徒の目や鼻 の上にふりかけるんですわ。
  [食事]
*班長が食事時に下級生からご飯を少しずつ取り上げるのである。はっきり 出せとは言わないで、自然に持ってこさせるように仕向ける。下級生は後の 仲間はずれの制裁を恐れ、今日は食べたくないとか、お腹がいっぱいだとか、心にもないことを言って差し出すのであった。
  [フトンむし]
*フトンを10枚くらい積まれて、その上へボスの命令でみんなが乗って暴れ たわけ。下へ入れられた方はまったく身動きできないわけで、たまたま先生 が階段を上がって見えて助け出されたけれど、まあ、もう少しで死ぬところだったんだよ。
*昭和20年のはじめ、私のいた寮で、3年生の男の子が死んだ。「心臓マヒ による突然死」だった。私たち学校側も、親族も、そう判断し、ことを運んだ。 ところが、つい最近、私は、すでに中年を過ぎた当時の子どもの口から、おそろしい話を聞いた。あの子どもの本当の死因は、上級生によるフトンむし だった、というのだ。しかも、その上級生とは、私がもっとも信頼していた班長だったのである。

★3. 引率教師の戦後の述懐
*戦争中の訓練主義教育が必要以上に子どもたちのうえに覆いかぶさっていたことは否めない事実でもあった。
われわれは子どもの精神衛生面を重要視できなかったということが、決定的な落度といわなければならないのではなかったか。

なにか、これは戦前戦中の話なのか、現在の話なのか、錯覚におちいりませんか。
美しい国の美しい時代から、なにも変わってはいないと思いませんか。
いや、むしろ、人間の尊厳など全く意に介さない皇国民の練成・訓練主義教育から現代にまで引き継がれてきた負の遺産を、そこに見るべきではないでしょうか。
大津の加害者の縁戚にあたる老人がブログに書いた言葉を思い出します。いじめで自殺するようなやつは弱いだけの話だ。そう。かつて皇国民の練成を至上とした教育者たちは、たぶんそう豪語していたはずです。
自分たちがひきおこした戦争の犠牲者である孤児たちを、まるで牛や馬のように狩りたてる為政者たちの思想は、はたして本当に克服されたのでしょうか。
提唱される【美しい国の道徳教育】には、こうした戦前の匂いがたちこめているような気がしてなりません。

http://ameblo.jp/oasisboy/entry-11486779803.html
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戦争孤児の置かれた境遇

 私のアンケート調査(1994年)によりますと、22名の回答者の内、2名(0.9%)が、「祖母が健在で復員した叔父が面倒をみてくれた。信心深い伯父夫婦に育てられたことで生活に不自由はなかった。」と答え、他20名(約90%)が親戚をたらい回しされたり、労働力として働かされたり、虐待され、食事も与えられなかったりと、一挙に家族を殺された悲しみ以外に、生活面で心に深い傷を負ってきました。

 国は孤児たちを困窮した親戚へ押しつけ、どうしても引き取り手のない子は養子にだしました。国の方針は戦争孤児にほとんど予算をつけず、戦争で孤児になった子を、国が親かわりに養育するという発想は、毛頭ありませんでした。


◆ 親戚に預けられた子

 集団疎開した子は、預かってくれる親戚がなかったから集団疎開させたのであり、縁故疎開は養育費を支払っていた親がいなくなると、とたんに手の平が返りました。

 親は我が子を保護、養育する義務と責任があります。親戚には子を養育する義務はありません。
現代でも突然、子の養育費も払わず「育てなさい」といわれれば迷惑この上ないと思います。当時は食糧難、物価の高騰、人心の荒廃などで、どの家庭も困窮していた時代でしたから、子どもを押しつけられても困るのです。邪魔者でした。

 親戚、知人宅などたらい回しさせられ「親と一緒に死ねばよかったのに」「ゴクつぶし」「疫病神」「早くでていけ」といわれたり、「お前は親戚中から棄てられた」「野良犬だ」「乞食」と、食べ物を与えられなかったり、食事の差別、いとこからの意地悪などで、身の置きどころがありませんでした。

「自分はこの世に必要のない人間なのだ。邪魔な存在だ」と自殺を考えたり、あるいは、野坂昭如著「蛍の墓」のように、家を出て浮浪児になっていく子も多くいました。

 * Iさん(小4年10歳、男)は復員してきたおじから「顔をみるのも胸くそ悪い」といわれ、家に入れてもらえず、いとこから小便をかけられたり、鎖のチェーンでなぐられ、食事は鍋底についた黒こげごはんつぶだけ。栄養失調で死ぬ寸前、近所の人に助けられました。その後、身売りされていきました。

 * Hさん(小4年10歳、女)は小学校も通わせてもらえず、働き通し、従兄から性的虐待をうけました。現在、まともに自分の住所も書けない、言葉も満足にしゃべれないほど、あまりにも萎縮してしまった姿をみて、私は呆然となりました。


◆ 行く先がなく、そこに置いてもらうより仕方なかった子

 親戚、知人宅に置いてもらうには、働かなければ食べさせてもらえません。普通の子の数倍働きました。子守や家事労働、あるいは農作業など様々です。身分はその家の人より数段下で、いわば奴隷扱いでした。口答え一つ許されませんでした。

 * Tさん(小4年10歳、男)は両親と兄4人を失い、一人だけ残されました。「カスだけが残った」といわれ、朝4時から夜10時まで開墾の重労働にあけくれ、近くの人から「児童虐待だ」といわれると、「誰も引き取らんから俺が引き取ったんだ。手伝うのは当たり前だ」と大声でまくしたて、そのおじ宅をでたあとは、学歴もなく、親も、家もなく、保証人もないため、4、50回も仕事を変わりました。
「土方のタコ部屋は酒とばくちの凄いところだった」といっていました。底辺でしか働けませんでした。

 一生懸命働いても「お前は使い捨ての身分だ」「だれのおかげで置いてもらっているんだ」といわれ、近所の子どもたちからは「野良犬やーい」「お前が盗んだにきまっている」と蔑まれてきました。

 義務教育の学校へいけなかった子は非常に多くいました。中卒でないと、美容師、理容師、調理師、看護婦などの資格もとれません。生きるのに精一杯で、底辺で働くしかなかったのです。孤児たちは心の支えがなく、先の見えない暗闇の生活で、死を願った孤児が多くいました。心を殺す生活に、夢も希望も奪われました。


◆ 幼い子

 幼い子ほど役にたちません。そのため食事が与えられず餓死、衰弱死していきました。

幼い子ほど早く死んでいきます。どの子も枯れ枝のように手足がやせ細り、お腹だけがふくれ「おかあちゃん」と呼びながら死んでいきました。

* 原告の山本麗子さん(小3年9歳、女)は、両親の死後、姉弟は親戚にばらばらに預けられ、彼女は叔母宅で塩をとるため、昼は山からマキを運び、夜は海岸で夜通し火を燃やしつづけ、昼夜の別なく働きました。2年後、叔父宅にいた弟が体調が悪いと呼ばれ行ってみると、弟は馬小屋に寝かされ、「おかあちゃん」と呼びながら、うどんのような回虫を吐いて死に、それを見た彼女は、叔母宅を出ましたが、行く先はなく浮浪児になりました。そして「浮浪児狩り」で捕まえられ、トラックでに載せられ山奥へ棄てられました。学校は小3年で止まりました。

* 原告だった石川智恵子さん(当時6歳、今年死亡)は、親戚に引き取られましたが、幼い故に役に立たず、食事は一日に芋1つだけ、身体は垢だらけ、栄養失調で日ごとに衰弱していき、みかねた近所の人に紹介され、子守奉公に出て、はじめて皆と食卓を共にできるようになり、みそ汁やお新香の味を知りました。

 役に立たない子ほど、食事を与えられなかったり、追い出されたり、次第にやせていき、動けなくなり、死んだ子の話は、ずいぶん聞きました。


◆ 養子

 国は引き取り手のない孤児を「養子」にだすことを奨励しました。1945月11月に集団疎開は終了、疎開児童は親もとへ帰りましたが、東京都のばあい、引き取り手のない孤児1万7千人が、主に東北地方(岩手、宮城、秋田県)に残されました。そこで農家などから「孤児を貰い受けたい」と申し込みが殺到しました。富士小の先生は一軒一軒、その家庭を訪問しましたが、どこも労働力に利用しようとしていることがわかり断ったそうです。他の学校では調査することなく、つぎつぎに養子にだしました。(孤児寮住職、寮母、先生など多数の証言あり)男の子は頑健な子、女の子は器量のよい子から先に貰われていったそうです。売春婦にされた子もいたようです。

 当時は生めよ、殖やせよの時代で、子だくさん。夫も10人のきょうだい、私の預けられた親戚も7人の子どもがいました。我が子がいるのに子どもを貰いにくるのは、必ず利用しようとする功利的な魂胆があります。

 * Kさん(小3年9歳、男)は、学校へ行かせず、早朝から夜遅くまで農作業の重労働をさせられ、仕事が遅いと殴る蹴る、雨の日もビショヌレになりながら働かされ、トイレへ行くときだけが自由になる時間だった。重労働で身体中が痛み、馬小屋で寝かされたといいいます。全くの奴隷生活でした。

 こうして養子にだされた孤児たちは、養子にだした校長や担任の先生を怨みました。

そして養子先や親戚宅を逃げ出した孤児たちが、行く先もなく浮浪児になっていくのです。


◆ 浮浪児生活

 浮浪児は全国で3〜4万人といわれています。親戚や養子先から逃げだしたり、あるいは空襲下で親の死により、そのまま浮浪児になった子もいました。上野駅地下道などに住み着き、夜はコンクリートの上でごろ寝をします。餓死、凍死、衰弱死、腐ったものをたべて中毒死、殴られて変死と、幼い子ほど先に死んでいきました。1947年元旦から7日にかけて、各家庭で親子が楽しい正月を過ごしているとき、地下道で11人が凍死しました(朝日1947年1月9日)。毎日、孤児が死んでいきました。

 しらみだらけのボロボロの服、汚れた真っ黒の顔、鼻が曲がりそうな臭い匂いに、世間から爪弾きにされ、忌み嫌われました。「野良犬。乞食。汚い。近づくな。目を会わせるな。人間のクズだ」とまるで汚物のように見られてきました。

 当時はゴミ箱をあさっても食べ物のない時代でした。「10日も食べられないときがあった。生きるために盗むしかなかった。盗むと大人から殴る、蹴る、コン棒でメチャクチャに殴られ、ひどい仕打ちをうけた。毎日つぎつぎと死んでいく子をみて、「明日は自分も死んでいるかもしれない」という生と死の隣りあわせの生活でした。

 盗み、スリ、かっぱらい、置き引きなどあらゆる方法で飢えを凌ぎました。もちろん学校へも行かれません。「浮浪児は10歳前後がもっとも多かった」と当時の各新聞で報じられています。10歳前後は学童疎開した年代です。学童疎開が孤児をつくったのです。
http://www16.plala.or.jp/senso-koji/z-tinjutusyo4.html

池袋第五小学校の児童たちが疎開した須坂の国民学校へ寄ったときのこと、沈着で冷静な武井にしては、めずらしく激昂している。
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 午後ハ小山の国民学校 池袋第五の生徒との事にて我子に逢ふ様な気持で臨んだのに児童生色なく全く笑はず気味悪き程なり 須坂増屋に泊る 池五の学寮なり 蚊帳は軍に召上げられたとの事にて専ら蓬で部屋をいぶす 児童は穢い部屋に押し込め先生ハ離れの高殿に大名然とおさまる 生徒と食事を共にせざる先生の寮は他に類例なし、試みに女教師に訊ねてみたら席が狭いからしないがその内に寮母に一緒に食べさせるつもりだとの事 あきれたもの也 夜ハスイトンを出す、これも他に例なし その上我等の寝室の隣りにて夜おそくまで女教員等とワイワイ騒いでゐて眠れず避暑地気分全く唖然たり 生徒の生活と全く遊離してゐる (1945年7月22日)
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 戦争末期には、教師たちも自暴自棄となっていたものか、子どもたちの面倒をあまりみなくなっていた様子が記録されている。
教師たちの名前こそ記していないが、池袋第五小学校と明記しているので、学童疎開先を多く慰問してまわっていた武井には、よほど異様な光景に映ったのだろう。

http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-14

横浜市ホームページ
>食糧事情が悪化し、お腹がすきすぎて、消化剤やお手玉の中の豆やクレヨンを食べた子どもたちも多かった。毎日、ノミやシラミと戦い、空腹と寒さに耐える生活が続いた。教師と学童らはドングリやイナゴとり、落ち穂を拾って少しでも食事の足しにしなければならなかった。

食糧とともに教師たちがもっとも気づかったのは、学童の健康状態であった。横浜市に提出された学童傷病報告によると、初めは胃腸カタル、急性結膜炎などが記録され、冬に入って感冒、凍傷と続き、疎開生活が長びくにつれ、栄養障害による浮腫、脚気が多くなり、一年後の昭和20(1945)年8月には疥癬(かいせん)が蔓延している。

http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/web-air-raid/chapter20.html

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