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2015年08月16日12:12

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鎌倉VS山梨

マイミクサンに山梨と鎌倉も縁があると書きましたが、早速ですが書きます。甲斐源氏武田は平安末期、源範頼に付き従い、木曽義仲を討ちとったりして鎌倉幕府成立に大いに貢献をしました。鎌倉と山梨の付き合いは古いのです。

時は変わって室町時代、当時、鎌倉府という東国支配のために役所があり、トップを足利尊氏の次男坊である基氏の家系が勤めており、鎌倉公方と呼ばれていました。NO2は関東管領と呼ばれていました。4代目足利持氏は上杉禅秀を関東管領の座を解き、ライバルの上杉憲基を関東管領に任命をしました。ライバルに地位を奪われたので面白くはありません。そんな禅秀に持氏の叔父満隆が近づいてきました。

満隆「持氏って嫌な奴だろう。一緒に手を組んでやっつけようぜ。京都の足利義嗣さんも俺らの応援をしてくれるよ」

禅秀「満隆さんが鎌倉公方、俺が関東管領、義嗣が将軍、いいね」

で、反乱を起こし、一時期は鎌倉を占拠して、関東をわがものとしました。しかし幕府が持氏を援護してきたために、反乱軍は負けてしまい、首謀者たちは鎌倉の雪ノ下で自刃をして終わりを告げました。

持氏は反乱軍に味方した武将が気に入らなくてたまらないです。その中で甲斐源氏武田は娘を禅秀に嫁に出しているので、積極的に支援をしていたので目をつけられてしまった。鎌倉からの軍隊が甲斐に侵攻して、武田家の当主、信満は天目山で自刃をしてしまったのです。

幕府は信満の息子を信重を当主にするよう命じるが、鎌倉はそれを無視して武田家から分家した逸見氏を当主としてしまい、逸見有直が甲斐の国を実質的に支配をしてしまったのです。そんな中、甲斐武田家復興を目指して一人甲斐に残っていた弟、信長が信州から跡部氏の援軍の元逸見氏を追い出してしまったのです。


これで甲斐は武田家の元になるかと言えば、そう簡単には行かなかったのです。鎌倉からの大軍が再び甲斐の国へ押し寄せ、武田信長を捕虜として鎌倉に連行してしまったのです。それ以降の武田信長の一生は波乱万丈すぎて楽しいですが、それは別の機会とします。

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