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2015年08月15日19:43

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沖縄戦の自決について鬼畜米英の論拠について

沖縄戦で集団自決が有り、それが日本軍が強要したとの文脈でいう人々がいます。
しかし、その前提条件として、日本軍の強要というよりも米軍の日本人への取り扱いそのものが疑われ、自殺があったのではないかと思います。

下記のウイキペディアの「米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断」を見ればそのことが分かるのではないかと、日本軍による強制を論じるより原因がこちらの方が重かったのではないかと私は思います。

下記より一部抜粋
ライフマガジン誌は1944年5月22日に、アリゾナで勤労動員されているアメリカ人女性が海軍将校のボーイフレンドからプレゼントされた「日本兵の頭蓋骨」トロフィーの横で手紙をしたためている画像を配信した。

1944年6月13日の報道では、「フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員からレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨から作られたものである」と報じた。日本でもこの記事が報道され「アメリカ人は精神錯乱しており、野蛮で、人種差別主義者で、非人道的である」と描かれた。

1944年6月13日の報道では、「フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員からレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨から作られたものである」と報じた。日本でもこの記事が報道され「アメリカ人は精神錯乱しており、野蛮で、人種差別主義者で、非人道的である」と描かれた。

またこの日本の記事ではライフ誌が1944年5月22日に掲載したくだんの「女性と頭蓋骨トロフィー」の画像にも言及した。エドウィン・ホイト「日本の戦い:太平洋戦線(Japan's War: The Great Pacific Conflict)」によれば、それら日本人の遺体を切り刻み持ち去る行為、および日本の軍部やメディアがこれらのアメリカ軍人による死体遺棄報道を元に行った反米宣伝が、結果的に連合軍上陸後にサイパンや沖縄で発生した民間人の集団自殺などにつながったとしている。


と、検証されてもいます。
今よくある、集団自決は日本軍の責任というのは、結果からの後付と今の価値観から歴史をみて、当時の状況を考えていない結果だと私は考えます。







米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断





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この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。





吊るされる日本兵の首。(1945年ビルマ、アメリカ軍撮影とされる)[1][2]




日本兵の頭部を煮るアメリカ兵(1944年)頭蓋骨は一体につき35ドルで販売されていた




日本人の頭部で遊んでいるマクファーソン中尉。アメリカ海軍魚雷艇341の甲板にて。(1944年4月30日ニューギニア)[3]
米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断(べいぐんへいによるにほんぐんせんししゃのいたいのせつだん)は、第二次世界大戦時、太平洋戦線においてアメリカ軍兵の一部が日本軍戦死者の遺体に対して行った戦争犯罪、猟奇行為。



目次
1 概要
2 戦争犯罪
3 遺体損壊を扱った文化作品
4 脚注
5 文献情報
6 関連項目
7 外部リンク


概要[編集]

ライフマガジン誌は1944年5月22日に、アリゾナで勤労動員されているアメリカ人女性が海軍将校のボーイフレンドからプレゼントされた「日本兵の頭蓋骨」トロフィーの横で手紙をしたためている画像を配信した。

太平洋戦線に投入されたアメリカ兵のなかには、敵兵の遺体の一部を狩猟の獲物と同じように扱い、「戦争の記念品、土産」として持ち去る例があった。「土産」には、多くの場合換金性が高いためドイツの強制収容所で虐殺されたユダヤ人に対してドイツ人が行ったように金歯が選ばれたが、頭蓋骨や他の人体各部が採取されることもあった。このような行為は、アメリカ軍より公式に禁止されていたと考えられているが、禁止令は戦場の兵士の間で常に遵守されていたわけではない。これらの猟奇行為がどの程度行われ、公的に認識されていたかは不明である。ペリリューの戦い、硫黄島の戦いなどで日本軍との間に死闘を展開したアメリカ海兵隊では、激戦につぐ激戦による最前線兵士の精神的疲労も重なって、日本兵の遺体損壊が日常的になっていた[4]。撃墜した日本軍機パイロットの遺体や、特攻により損傷した米軍艦艇に残されたパイロットの遺体が「コレクション」された記録もある[5]。

大量の日本軍の戦死者の遺体は排尿や死体への射撃などで冒涜され、あるいは記念品として戦死者の耳や、時には頭などが切断されネックレスにされるなどして持ち去られた[6]。なおこれらの猟奇行為は、敵兵に対する怒りから行われるだけでなく、黄色人種である日本兵に対する人種差別的感情からも行われていると批判された(同様の猟奇行為はインディアン戦争やヴェトナム戦争といった他の異人種相手の戦争でも繰り返され、常態化している)。

日本軍の戦死者の部位を切り取り「コレクション」する連合国軍兵士の猟奇行為は「戦争の全期間にわたり連合国軍当局に懸念を抱かせるのに十分な規模で行われ、そして、広く広報され、さらにアメリカや戦時中の日本の新聞においてコメントされていた」[7]。

連合国軍兵士により、日本軍将兵の遺体の部位を「コレクション」する行為は戦争の初期から行われており、このため1942年9月にこれら「コレクション」を行うことを懲戒処分の対象とするとの命令が出された[8] 。サイモン・ハリソンはこれらの行為はガダルカナル島の戦いが最初の機会であったと結論付けている。明らかに、生きていようが死んでいようが、初めて日本軍と遭遇した時、戦死者の身体の一部をコレクションすることは軍当局に懸念を抱かせる規模で行われ始めた[9]。

戦後、マリアナ諸島から本国へ日本軍将兵戦死者の遺体の残りが送還された時、約60%がそれらの頭部を失っていた[10]。サイパン島で収容所にいた日本人少年は、海岸で頭蓋骨をボール代わりにして遊ぶ米兵を目撃している[11]。

戦争犯罪[編集]

1944年6月13日付けの報告ではアメリカ陸軍法務部長(JAG)において、「そのようなひどい残虐な行為」が不快であることに加え、戦時国際法違反であると主張されており、それを全ての指揮官に配布することを推奨しており、「敵の戦没者の虐待は病人と負傷者の扱いについて規定された1929年に批准されたジュネーブ条約の露骨な違反であり、さらにそれは関わるごとに、戦場を保持している交戦国は負傷者と死者を探し当て、彼らを強盗行為やそのほかの悪行から保護する処置を捕らなければならない」とされている。

これらのアメリカ軍人の行為は陸上戦における慣習的な不文律に違反しており、死刑に処することもできた[12]。アメリカ海軍法務部では1週間後、その見解を反映し、「幾人かのアメリカ軍将兵が犯した残虐行為により、日本人による報復行為が引き起こされ、それが国際法の元で正当化されるおそれがある」とさらに付け加えた[12]。しかしこれらの違法行為はその後も断罪されることはなかった。

1944年6月13日の報道では、「フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員からレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨から作られたものである」と報じた。日本でもこの記事が報道され「アメリカ人は精神錯乱しており、野蛮で、人種差別主義者で、非人道的である」と描かれた。

またこの日本の記事ではライフ誌が1944年5月22日に掲載したくだんの「女性と頭蓋骨トロフィー」の画像にも言及した。エドウィン・ホイト「日本の戦い:太平洋戦線(Japan's War: The Great Pacific Conflict)」によれば、それら日本人の遺体を切り刻み持ち去る行為、および日本の軍部やメディアがこれらのアメリカ軍人による死体遺棄報道を元に行った反米宣伝が、結果的に連合軍上陸後にサイパンや沖縄で発生した民間人の集団自殺などにつながったとしている。

遺体損壊を扱った文化作品[編集]
日本軍への残虐な戦犯 - ナショナルジオグラフィックチャンネル製作のドキュメンタリー作品。トム・ハリソン英国陸軍少佐(と部下達)、及びボルネオ島首狩り族が共同生活作業で、だまし討ちされ殺害された日本兵達の首を切断し、大量の干し首加工を行い楽しんだ行為を解説。
ザ・パシフィック - 原作の実録手記「ペリリュー・沖縄戦記」に基づく遺体損壊行為が幾度も登場する。









「私を殺して!」 知花くららの祖父が生き残った沖縄戦
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2015年08月15日 11:51 dot.

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 モデルで国連WFP日本大使の知花くららさん(33)は沖縄出身。那覇市に住む祖父、中村茂さん(86)は、沖縄戦での集団自決の生き残り。これまで沖縄戦のことを、祖父になかなか聞けなかったという知花さん。戦後70年の今年、当時の詳細なできごとや祖父の思いをじっくりと聞いた。

*  *  *
 1944年9月、沖縄・慶良間(けらま)諸島の慶留間島(げるまじま)の北部に日本軍が駐屯するようになった。兵舎造りや食料調達など、兵隊がしっかり戦えるようにと住民も心をこめて協力した。「いざとなったら、自分たちを守ってくれるはずだ」。日本の勝利をみじんも疑わずにいた。国を守るためにやって来た兵隊が、勇ましく見えたという。

 当時、長女の八重子おばは日本軍のための食料調達や農作業などを手伝っていた。私が幼い頃、八重子おばが、「兵隊さんたちと、楽しく故郷のお話したこともあったわ」と、懐かしそうに語っていた。戦場となる前の、人間らしい、あたたかい交流だったのだろう。これから待ち受ける地獄を、誰も想像することなどできなかった。

 翌45年3月26日、沖縄戦の始まりは、米軍の慶留間島上陸だった。祖父は港に無数の黒い艦隊が押し寄せているのを見た。

「鬼畜米英に捕まれば、女は強姦され、男は引きずり回されて殺される。捕虜になるのは恥」

 住民はそう教えられていた。

 3姉弟を含め15人ほどの村人が森で身を隠すように集まっていたが、米軍の攻撃が激しくなり、みんな逃げて散り散りになった。ふと気付くと、長女とはぐれ、祖父は次女と数人の村人と一緒だった。そして、自決のために、島の北西にあるサーバル近くの壕(ごう)へ。他の人はとっくに殺されて、残っているのは自分たちだけだと思い込んだ。

「私を殺して!」

 次女は、弟の祖父にそうせがんだという。祖父が次女の細い首をひもで絞め、自分も一緒にと自らの首も絞めた。だが、失敗。次女は苦しさから指でひもを必死に緩め、そしてまた叫んだ。

「茂、お願い! まだ私は死んでないよ! 早く殺して!」 何度やってもうまくいかず、そのうち二人の瞼(まぶた)は真っ赤に腫れ上がり、首は皮がむけ、赤黒いあざがついた。ふらふらと次の死に場所を探しさまよっていると、途中で長女の八重子と再会。3姉弟が島の西側を占める森の山頂であるウンザガーラにたどり着いた。そこでは悲惨な光景が広がっていた。

 生まれて数カ月ほどしかたたない祖父の叔父の子どもである赤ん坊が、木の枝にぶらさがっていた。その下には、叔父と叔母、そして4人の娘がうずくまるようにして、死んでいた。祖父は言う。

「でも、それを見ても、かわいそうだなんて思わなかったよ。早く死ねてよかったねえ、って心から思ったさー」

 確実に死ぬために、祖父は、日本兵のところへ手投げ弾をもらいに行くことにしたという。

「そこにはもう日本兵は誰もおらんかった。先に逃げとったんじゃなあ」

 頬をなでながら、遠い目をする祖父。いつもの笑顔は消えている。

 そして、銃弾や砲撃から逃れ、手ぶらで森に戻ってきた祖父たちは、「最後にみんなで首をくくっていっせいに死のう」。布切れや葉っぱや腰ひもなどをかき集め、それぞれが木にくくりつけた。首を輪にかけて、いざ、死へのかけ声。けれど、

「ちょっと待って、待って、まだよ」

 一人は足を滑らせたり、一人は木の枝が折れたり。なかなかうまくいかなかった。もう一度、もう一度……。死への号令を繰り返しているうちに、そのうち、皆が死ぬことに疲れ果ててしまった。このまま鬼畜米英に捕まるのか──。心は、地獄をさまよっていた。

 ふと、向こうで大きな声がした。先に捕虜になった村人の声だった。

「みんなは生きているんだよ!」

 聞けば、米軍の捕虜になったという。祖父たちが山を下りると、死んだと思っていた人たちはまだ生きていた。米軍は、チョコレートや缶詰、たばこ、何でも持っていた。

※週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋


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「命どぅ宝だよ」 知花くららの祖父に残る日本兵への怒りコント「お笑い米軍基地」の小波津正光「アベ首相はネタ。沖縄人を見くびってはいけない」田原総一朗「辺野古移設問題への沖縄県民の憤りの根源は『琉球処分』だ」



■「私を殺して!」 知花くららの祖父が生き残った沖縄戦
(dot. - 08月15日 11:51)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=3567627
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