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2015年08月10日12:15

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昔とった杵柄?

 私は球技というものがまるで出来ない。小中学生の頃、野球とかバレーボール、バドミントンなどを授業その他でやったが、全く駄目で、初歩的なキャッチボールなら出来たが、バットを振ってもボールに当たったことがないという有様だった。
 何とか出来たのは、水泳と少林寺拳法くらいだろうか。水泳は、小学生の頃から浜寺にあった水練学校に行っており、最終的には1万メートルの遠泳が出来るようになり、少林寺は、高校の時、同じクラスにいた片足が小児麻痺の反戦高協(中核派の高校生組織)の人間に柔道部の者が因縁をつけ、そこに割って入ったところ柔道部の連中にボコボコにされ、その仕返しとして始め、天王寺近くの道院(道場のこと)と、大阪城にある修道館へと連日のように通い、一応、黒帯の2段にはなった。また中学生の頃はボーイスカウト活動をしていたため、キャンプファイアーでテントを張ったり、飯盒炊さん等はお手の物だった。
 水泳は、30歳頃、詩の雑誌関係の友人たちと千葉の外海に面した海水浴場で、当時、主婦の友社の編集部に勤めていた元横浜国大の水泳部だった奴を先頭に、みんなでかなり沖に出、地元の漁師からも、ウツボが徘徊し、泳ぐのは危険だといわれる所に出てしまい、その時、遠泳で浜辺に戻るのに役に立ったことがあった。またボーイスカウトの方は、高校1年頃、冬に紀州方面の山に友人と登り、道に迷い、危うく遭難しかけたことがあったが、その時、活路を見出すための精神力の維持に役たった。少林寺の方は、東京に出て二年目の22歳の時に、国分寺の郊外で何人かの暴走族に絡まれた時、役にたったことがあり、26歳頃の時、、まとわりついてくる不良やゴロツキから守るため、美形のストリッパーの私的用心棒をしたりもした。
 しかし、どれもこれも、昔の話であり、最近は歳のせいで足も昔のようには上がらず、約30年ぶりくらいに少林寺の型をしてみたところ、足が吊ってしまう体たらくだった。上腕の筋肉や背筋や腹筋は、まだついているが、それでも歳に応じた体力の衰えは致し方なく、半ば諦念の境地にあったが、今日、ひょんなことから役にたった。それも少林寺の前に、少しやっていた起倒流系の柔術の受身だ。柔道と違って、起倒流系の柔術は、畳ではなく石畳の上で投げ合い、また柔道のような力学的な投げ技だけではなく、関節技も多く、さらに投げる際も、柔道のように投げた相手から手を離さずにいるのではなく、文字通り投げ飛ばす。それも硬い石畳の上であり、だから受身の手も掌でやるのではなく、手刀でやることになる。
 今日、高い所から物を取るため、少し高めの脚立に登ったところ、ゲバルトで痛めた左足を庇おうとしてバランスを崩してしまい、落下転倒してしまったのだった。その時、自分でも意識しておらず、無意識の所作だったのかもしれないが、うまく身体を庇い、頭を撃つことも、腰や脊髄を撃つこともなく、うまく転倒出来たのだった。かなり幸運だったといえるが、若い頃と比べると身体のバネなどはかなり衰えており、油断大敵だと、つくづく認識させられたのだった。

※画像は、元柳川城主家だった蒲池氏の最後の城主だった蒲池鎮並の娘で、柳川落城の時、長崎に逃れた蒲池徳子の子孫で、江戸時代、幕府の講武所の柔術師範だった大身の窪田治部衛門鎮勝(蒲池鎮克)による吸心流体術(柔術)からのものと、上記の26歳の頃のもの。
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