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2015年08月06日11:01

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この人には一生勝てないだろうなと思う

親なるもの断崖が書籍化するので、読んでみればとママンに薦めた。

北海道室蘭の、女郎遊郭のお話。第二部からは戦争の話になる。


北海道開拓の人柱にされた女郎達。
開拓には男手がいる。
過酷な環境下で男を現場にとどめるには、金と安い女がいる。

男を安い賃金で働かせ、死んだらその場に埋めて、そのまま線路を通す。
逃亡を阻止するために、安い賃金で働く男が買いやすい、安い賃金で股を開く女達を用意した。
その女達は主に東北の貧しい百姓村から女衒が買い集めてきた、逃げ場所のない娘たち。


そういった話しを、実家に帰ったとき、面白かったよ〜 読み応えがあったよ〜と、
ママンに話した。

ママンは大牟田で生まれ育った炭坑町の娘で、室蘭と似た様なものだったので、
女郎達もくさるほど沢山みたらしい。

ある日、小学生だったママンが家に帰ったら、店の奥の休憩所に、
キャミソール姿の見知らぬ女がぐうぐうと眠っていたらしい。
母親に「あの人、だれ?」と聞いたら、「誰にも言うな」と、
いつもと違う声で言われた。マジに言ったらいけないんだなと、子どもながらに理解したらしい。

どうも、近くの女郎屋から逃げてきたらしく、「あの店のババアはかくまいそうだ」ってことで、
女郎屋の守り役の男がやってきて「隠してんじゃねえぞ痛い目に遭わすぞ」と脅したらしいが
九州の炭坑町で商売屋の女将を務める母親が、売春屋の男如きにひるむわけがない。
ものすげえ方言で反論し追い返したらしい。

九州男児を御する九州女子は すげえんだ。
(いや、日本全国、どこへ行っても、女が弱い郷が、そもそも、ない)

そして翌朝、ママンが起きて、店の奥の休憩所にいくと、
もうキャミソール姿の女性はいなかったらしい。
おそらく夜中に母親が銭を持たして、タクシーでも乗せて逃がしたのだろうとのことだ。


というわけで、ママンに『親なるもの断崖』の話しをしたら、じゃあ自分も読んでみると言った。
これで読者が増えるぞと、うきうきしながら、傍で小説現代を読んでいたパパンにも、
「読む?」と聞いてみた。


「いらない」 と言った。


なんでか聞いたら、「子どもの頃に、いっぱい見たから、今さら」と返ってきた。

ああ、そうか。父の故郷は二戸という、岩手県の内陸部北端にある小さな村だ。
戦中生まれの父の生まれは東京だが、焼夷弾で家を焼かれて山梨へ逃れ、
そこから北上して東北の二戸に親子で落ち着いた。

長兄は父より12歳は上で、すでに予科練へ入り、兵隊として戦地へ行こうとしてた。
次兄もしかり。この頃の長兄、次兄の様子を父は知らない。

ついでにパパンのパパンである父親はどうしてたかというと、東京で働いていた。
見事に一家が散らばっている。


二戸はパパンのママの故郷だった。パパンの祖母が生きており、簡易宿泊所を経営してた。

戦中、戦後の東北田舎町で、簡易宿泊所に泊まる客は、北海道へ渡る人足が主だった。
たまに人足と夫婦になって、北から南へ降りてくる女郎あがりもいたらしい。


パパンは当時の子どもらしく、親の仕事をよく手伝ったらしい。
その手伝いには、真冬に駐在所へ駆けていくというのもあった。

簡易宿泊所に泊まる人足の中には、本当に金が無くて、
布団も借りられずに雑魚寝という者もいた。

冬の朝、そういった人足が、一階へ下りてこない事もあった。
様子を見に行くのが父の役目である。
たいていの場合、凍死していた。

祖母ちゃんに「死んでるよ〜」と伝えに行くと、
「じゃあ駐在所へ言って、人を呼んでおいで」と命じられるので、
分かったと言って走って行くのが仕事だった。

「おまわりさ〜ん、うちでお客が凍死した〜」と駐在員に言うと、
「もう、そんな季節か」と言って、駐在員がやってきた。
毎年のことである。誰も騒ぎはしない。ただちょっと、迷惑なだけ。


パパンは当時、乞食人足を腐るほど見て、そいつらの人なり、人間性も知っていたので、
「こんな大人にだけはなるまい、人生終わりだ」と死ぬ気で勉強し、国立大に入った。
東京でも死ぬ気で働き、都内に一軒家を建てた。


乞食に優しくすると、若者から向上心が亡くなる。


村上龍の言葉だが、120%正しいと、父の選択からも、私は思う。

ちなみに国立大へ行った父の学費は、生還した長兄、次兄が払った。後は奨学金。
長兄は時代のせいでろくに勉強できず、帰ってきても職がなかった。
しかも予科練でみっちり仕込まれたので、まだ洗脳がとけておらず、
「日本は負けた振りをしているだけ、天皇陛下の一声があれば、
自分はいの一番に駆けつけ、爆弾を抱えて敵国に一矢報いる覚悟だ。
俺の事は死んだものと思って欲しい」と祖母に言ったそうだ。

それを傍で聞いていた父の感想は、「そんなことより、畑を耕せ」だったらしい。
言わなかったそうだが。(言ったら殴られるどころじゃ済まなかったよ)

結局、長兄は学校へ入り直すこともできず(ド貧乏だからね)、東京へ出て働いた。
次兄も戦争のせいでろくな教育を受けられないまま、やはり東京へ出て働いた。
二人はそれぞれ、中卒、高卒である。

この二人の、汗まみれの銭のお陰で、父は大学を卒業した。
もし、父が大学在学中、どこぞのエセインテリが粋がって、
授業を阻止して大学教授をつるし上げ、
「なぜ戦争に加担した! なぜまだ教職に就いてる!」
などと、在日朝鮮人をお供につけて隣に座らせ箔にして詰問し始めたら、

「お前等、そういうのは、休み時間に教授の研究室にでも行って、やれ」

と軽蔑しただろう。長兄次兄の、汗まみれの銭で授業を受ける父にとって、
エセインテリの授業妨害は、「兄貴達の金を返せ」という、
低俗な自己表現でしかなかっただろう。

ちなみに父は、35歳で母と結婚したとき、まだ奨学金を返していた。
今の学生達が、奨学金返済に苦しんでおり、結婚もままならないというのを聞いて、
あまり共感しないのは、そのせいかもしれない。

結婚式をして新婚旅行は海外に行って、新居には新調した家具を揃えたい、
という馬鹿な考えを持たなければ、結婚くらいできる。
婚姻届に名前を書いて出せば良いだけなのだから。



こんな父だから、安保闘争で安田講堂がフィーバーし、新宿駅が使えなかったとき、
何をしていたかというと、会社の工場に寝泊まりして、アメリカに売る機械を開発製造していた。

大量に製造し、タンカーに乗せて輸出し、大量の外貨を獲得する事で、日本を強くした。

当時の、浮かれとんちキな、若さと馬鹿さが紙一重のガキどもを尻目に、
実直に仕事に励み、日本の土台を築き支えた、職人達、労働者達への、尊敬は尽きない。


そんな父が、親なるもの断崖を「今さら」と言った。

現代に生きる私なんぞは、当時の女郎や人足の待遇を、「衝撃的ぃ〜」とか言って、
ある意味、面白がれるが、父にとっては、面白い面白くない以前の、日常であり、
特別 騒ぐようなものではない、自然な風景だった。


自然な風景であり、惨たらしい光景であり、虚しくも儚く、強かで汚い、生臭いものだったろう。


私が、今のガキどもの、結婚観や子育て観を、甘やかされた馬鹿のそれと感じて、
全く共感しないのは、父の血のせいかもしれない。


当時の生臭さを覚えている者にとって、
親が経営する宿泊所で、毎年、凍死者が出るたびに駐在所へ走った子どもにとって、
嘗ての室蘭の女郎や人足の歴史を珍しがって騒ぐ、
エセインテリの私の姿は、どのように映っただろう。


さぞかし、白けていただろうなと、思う。


そして、きっと一生、こういった「その目で見て知っている利口で実直な人」には、
私は勝てないだろうなと感じた。





P.S 某爺さんが内心自慢に思っているだろう、ご自身の人生が、
私にとって如何にくだらないつまらないものか、もう好い加減、思い知って頂きたいものだ。

身の程を知って、弁えろ。





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