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2015年08月04日00:31

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8月4日の日記

今日の出来事:1590年−小田原征伐:小田原城が開城、1639年−第五次鎖国令発布、1693年−修道士ドン・ペリニヨンが発泡ワインシャンパンを発明、1793年−高山彦九郎自刃、1868年−磐城戊辰戦争:開田の戦い、1969年−TBS系各局で時代劇「水戸黄門」が放送開始、1975年−日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館等を占拠(クアラルンプール事件)

今日は、小田原征伐:小田原城開城です。真田氏との領土紛争を起こした後北条氏は豊臣秀吉の仲裁によって、後北条氏が沼田城を領有して後北条領とする事で和解しました。その和解の条件として秀吉は北条氏政・氏直のどちらかの上洛を要求しました。ところが、沼田城将・猪俣邦憲が真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る上野国・名胡桃城を、鈴木重則の家臣・中山九郎兵衛を買収し、偽手紙によって鈴木重則を城外へと誘き出し、その間に中山九郎兵衛に城を乗っ取らせるという謀略によって奪取しました。豊臣秀吉は後北条氏の惣無事令違反を非難し、討伐令を全国の諸大名に通知しました。計21万の北条征伐軍が編成されました。以下が小田原合戦の概要です。
山中城の戦い:城主に松田康長、援将・北条氏勝、間宮康俊らが守っていました。豊臣秀次を大将とし、羽柴秀勝、徳川家康、池田輝政、木村重茲、長谷川秀一、堀秀政、丹羽長重、一柳直末らが攻撃しました。一柳直末が間宮康俊の軍の銃弾に当たり討ち死にしますが、松田康長は北条氏勝を逃すために手勢を率いて玉砕、間宮康俊も戦死し、山中城は落城しました。
鷹之巣城の戦い:徳川家康により、落城しました。
足柄城の戦い:北条氏忠が守備しましたが、山中城が落城すると小田原城に退却しました。残された守備隊は井伊直政の攻撃をうけ、落城しました。
松井田城の戦い:大道寺政繁が守備しましたが、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、依田康国の軍に攻められて降伏しました。大道寺政繁はこの後、道案内をする事になります。
国峰城の戦い:小幡信秀が守備しましたが、前田利家の軍に攻められて落城しました。
西牧城の戦い:多米長定・大谷嘉信が守備しましたが、前田利家の軍に攻められて落城しました。
厩橋城の戦い:浅野長政により攻め落とされ、落城しました。
箕輪城の戦い:塀和信濃守が守備しましたが、前田利長に攻められて開城しました。
石倉城の戦い:寺尾左馬助が守備しましたが、依田康国に攻められて開城しました。しかし、開城後に依田康国を殺害したため、依田康国の弟・康勝に寺尾左馬助は討たれました。
玉縄城の戦い:北条氏勝が守備しましたが、徳川家康の攻撃を受けて降伏・開城しました。
松山城の戦い:城主・上田憲定は小田原城に籠城したため、城代・山田直安・難破田憲次ら2300名が守備しました。前田利家・上杉景勝・真田昌幸・直江兼続らに攻められて落城しました。
江戸城の戦い:川村秀重が守備しましたが、玉縄城開城後、徳川家康に降伏開城しました。
小金城の戦い:浅野長政に攻められて開城しました。
臼井城の戦い:内藤家長に攻められて開城しました。
本佐倉城の戦い:原胤成が守備しましたが、内藤家長に攻められて開城しました。
河越城の戦い:降伏した大道寺政繁により、開城されました。
岩槻城の戦い:太田氏房が小田原城に入ったため、宿老・伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩槻城に籠城しましたが、浅野長吉が率いる約2万の兵に攻められ、1000の犠牲を出して降伏落城しました。
館林城の戦い:城代・南条因幡守昌治が守備しましたが、石田三成に攻められて開城
鉢形城の戦い:北条氏邦が守備しましたが、上杉景勝、前田利家、浅野長政、木村重茲、真田昌幸の軍に包囲され、3000の兵が約1か月の籠城戦を戦った後、開城しました。
八王子城の戦い:城主・北条氏照は小田原城に籠城したため、城代の横地吉信、家臣の狩野一庵、中山家範、近藤綱秀ら将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠りました。上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められ、多くの将兵婦女子が討死しました。
韮山城の戦い:北条氏規が守備しました。3600の兵で織田信雄の軍44000を相手に約100日間も持ちこたえましたが、ついに開城しました。
下田城の戦い:清水康英が守備しました。豊臣水軍・10000人(長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆、吉見広頼)が来襲し、600の兵で約50日にわたって籠城した後に開城しました。
小田原開城:北条氏政・氏直父子、北条氏照らが籠城しました。太田氏房が蒲生氏郷軍に夜襲をかけたり、包囲軍は井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けたりしました。豊臣軍の堀秀政が陣没しましたが、小田原城内部で松田憲秀の子・笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していた事が発覚しました。笠原政晴の計画では細川忠興、池田輝政の両軍勢を引き入れる手はずでしたが、一味の一人が板部岡江雪斎に計画を白状したため、笠原政晴は北条氏直により成敗され、松田憲秀も押込と成りました。この事件と陥落させられた八王子城から首多数が送られ、将兵の妻子が城外で晒し者にされた事で士気低下に拍車をかけました。さらに石垣山一夜城が完成した事が決定的な打撃をもたらしました。このとき、北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾したため、北条家における定例重役会議であった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになりました。そして、北条氏直が徳川軍の陣に向かい、自分の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出ました。徳川家康は、豊臣秀吉に北条氏直の降伏を伝えました。こうして小田原城は開城しました。北条氏直は助命され、北条氏規と共に紀伊国高野山に追放されました。しかし、北条氏政と北条氏照が切腹になりました。また、内通の手引きをした松田憲秀と早々に降伏して主家を裏切った大道寺政繁に切腹が命ぜられます。こうして北条氏は滅亡しました。
忍城の戦い:城主・成田氏長が小田原城へ入ったため、成田長親を城代として家臣と農民ら3000の兵が立て籠りました。石田三成を大将とし、長束正家を副将に佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝などの常陸、下野、下総の諸大名や真田昌幸など上野の諸将が、本陣を忍城が一望できる近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置いて、23000の兵で忍城を包囲しました。豊臣秀吉は、石田三成に近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うよう命じ、浅野長政や徳川家康の後詰も導入され、利根川から忍城付近まで総延長28キロメートルに及ぶ「石田堤」が建設されました。しかし、利根川の水量が貧弱であったため効果は薄く、結局、忍城攻めは小田原開城後も続きました。小田原で成田氏長が降伏し、使者が送られた事により開城しました。

次に、第五次鎖国令発布です。幕府は、第五次鎖国令発布しました。これにより、ポルトガル船の入港が禁止されました。

その次に、修道士ドン・ペリニヨンが発泡ワインシャンパンを発明です。フランス北東部のシャンパーニュ地方で生まれたドン・ピエール・ペリニョンは、ベネディクト会の盲目の修道士でした。彼が、発酵中のワインを瓶詰めして放置したところ、偶然シャンパンができました。彼の名から「ドン・ペリニヨン」と名付けられました。彼が所属していたオーヴィレール修道院は現在、ドン・ペリニヨンの貯蔵所となっています。

その次の次に、高山彦九郎自刃です。高山彦九郎は、江戸時代後期の尊皇思想家です。林子平、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」の1人です。13歳の時に「太平記」を読んだ事をきっかけに「勤皇」の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て各地を遊歴して「勤皇論」を説きました。前野良沢、大槻玄沢、林子平、藤田幽谷、上杉鷹山、広瀬淡窓、蒲池崑山など多くの人々と交友し、蝦夷地(北海道)へ渡ろうとしましたが果たせませんでした。京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上した事で光格天皇に拝謁しました。「尊号一件」と呼ばれる事件に遭遇して公家・中山愛親の知遇を得た事で、老中・松平定信など幕府の警戒を受けました。1791年に九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとしましたが退けられ、豊後国日田で捕縛されました。その後も幕府の監視を受け、1793年に筑後国久留米の友人・森嘉膳宅で自刃しました。享年46でした。高山彦九郎は、多年にわたる日記を残しました。その後、吉田松陰はじめとする幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与える事になります。また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられる事になる人物となります。

最後に、磐城戊辰戦争:開田の戦いです。新政府軍は、「市川・船橋戦争」、「上野戦争」で「彰義隊」らを壊滅させたため、関東から兵力を移動できるようになりました。しかし、「北越戦争」では双方大軍を展開して膠着状態に陥っていました。一方、奥州街道の白河口では新政府東山道軍・伊地知正治が列藩同盟軍を撃破していました(白河口の戦い)が、戦力不足となっていました。東征大総督府下参謀・西郷隆盛は以前から「兵力が越後口に傾き過ぎ、白河口が寡少で均衡がとれないばかりか、四方を優勢な敵に囲まれている」と危惧をしていましたが、大村益次郎に関東を平定してからと止められた経緯がありました。そして、板垣退助が率いる土佐藩兵と薩摩藩兵を中心とする一軍が、白河口への援軍に向けられました。さらに新政府軍は海路を用いて、磐城地方の平潟に敵前上陸する作戦を立案しました。磐城地方を脅かせば、隣接する仙台藩にも影響を与える事は確実でした。こうして平潟への上陸作戦が開始されました。上陸作戦の第一陣は、薩摩藩、大村藩、佐土原藩の三藩1000名でした。奥羽鎮撫総督参謀・木梨精一郎と、大村藩の渡辺清がそれぞれ指揮をとりました。一方の列藩同盟軍は、平潟周辺に仙台藩兵と磐城地方諸藩の兵が控えていました。加えて、「箱根の戦い」で敗戦後に東北で合流した「遊撃隊」の林忠崇、人見勝太郎の100名が加わっていました。全軍上陸を終えた新政府軍は守備を固め、第二陣の柳河藩317名、岡山藩302名を待ちました。列藩同盟軍は、仙台、磐城平、泉の各隊、および「遊撃隊」を出陣させました。平潟の北にある関田付近で新政府軍と遭遇し、両軍は関田で交戦を開始しました。薩摩藩兵に仙台藩兵が突き崩され、同盟軍は敗走しました。こうして「戊辰磐城戦争」が開始されました。

今日の誕生日:ルイ・ヴィトン、梨田昌孝、江川紹子、中内正、美保純、バラク・オバマ(第44代アメリカ合衆国大統領)、ロジャー・クレメンス、沢田知可子、布川敏和、ドミンゴ・マルティネス、佐々木健介、吉田友紀、檀れい、チューヤン、八木真澄(サバンナ)、水田わさび、山本美憂、鈴木蘭々、木内 泰史(サンボマスター)、谷本歩実、内川聖一、チャン・グンソク、白濱亜嵐(GENERATIONS from EXILE TRIBE)、福田麻由子、倉田瑠夏(アイドリング!!!22号)、加藤清史郎

今日の記念日:ビヤホールの日、箸の日、橋の日、吊り橋の日、パチスロの日、ばれいしょの日

今日の「今日訓」:本日は、1899年に東京・銀座の新橋際に、現存する中では日本で最も古いビアホール「ヱビスビヤホール」が開店した事で「ビヤホールの日」、「は(8)し(4)」の語呂合わせで「箸の日」、東京・千代田区の日枝神社では「箸供養祭」が行われます。「は(8)し(4)」の語呂合わせで「橋の日」、「吊り橋の日」、「パチ(8)スロ(4)」の語呂合わせで「パチスロの日」、「馬(8)鈴(0)しょ(4)」の語呂合わせで「ばれいしょの日」となりました。
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