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2015年08月02日00:29

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8月2日の日記

今日の出来事:紀元前216年−第二次ポエニ戦争:カンナエの戦い、ハンニバル率いるカルタゴ軍が、共和政ローマ軍を包囲殲滅する、紀元前47年−ローマ内戦:ゼラの戦い、シーザー(カエサル)は「来た、見た、勝った」と報告、1550年−筒井順昭が死去、1580年−御館の乱終結、1824年−宝島事件、1868年−北越戊辰戦争: 大黒・川辺の戦い、1869年−戊辰戦争:村上藩家老・鳥居三十郎切腹、1877年−西南戦争:宮崎の戦い、1944年−テニアン島の日本軍が玉砕し、テニアンの戦いが終結、1945年−第二次世界大戦:富山大空襲、八王子大空襲、水戸大空襲

今日は、第二次ポエニ戦争:カンナエの戦いです。アルプス山脈を越えてイタリア半島に侵入したカルタゴの将軍ハンニバルは、「トレビア川の戦い」、「トラシメヌス湖畔の戦い」で、ローマ軍に甚大な被害を与えました。ローマの元老院は、急遽ファビウス・マクシムスを独裁官に任命し、戦力を再編する時間を稼ぐ事にしました。ファビウスは、ハンニバルとの決戦を巧妙に避け、持久作戦を展開してカルタゴ軍の消耗を待ちました。しかし、ハンニバルによってイタリア全土が略奪にさらされると、ファビウスのそうした姿勢は臆病だと指摘され、決戦を望む声が湧き起こりました。これを受けてローマの元老院は、ファビウスの任期が切れると同時に、ルキウス・アエミリウス・パウルスとガイウス・テレンティウス・ウァロの両名を執政官に任命し、積極策に転じました。両執政官は、約80000名の軍団を率いてハンニバルの迎撃に向かいました。パウルスはハンニバルとの正面対決を避けるべきだと主張していましたが、ウァロは決戦を望んでいました。紀元前216年8月2日、南イタリアのアプリア地方のカンナエ付近で、ローマ軍とハンニバルが率いるカルタゴ軍約50000名が対峙、当日の最高指揮官であるウァロが決戦を挑んだため、「カンナエの戦い」が起こりました。戦闘開始と同時にローマ軍の重装歩兵はカルタゴの歩兵戦列を突破するために前進しました。スペイン・ケルト歩兵は少しずつ押されていましたが、弓なりの配置のおかげで、ローマ軍中央の前進速度を多少緩やかにする事ができました。その間にカルタゴ軍左翼のスペイン・ガリア騎兵が優勢な戦力でローマ軍の右翼騎兵を圧倒し、これを壊走させました。一方、カルタゴ軍右翼のヌミディア騎兵とローマ軍左翼の同盟国騎兵は互角の戦いを繰り広げていました。自軍の戦列中央が圧倒されつつあるのを見たハンニバルは、両翼のカルタゴ歩兵を前進させ、ローマ軍戦列の両翼を押し込みました。一方、ローマ軍の右翼騎兵を壊走させたハスドルバル指揮下のスペイン・ガリア騎兵は、直ちに方向を転じ、ヌミディア騎兵と交戦している同盟国騎兵を挟撃しました。戦力的に劣勢となった同盟国騎兵はほどなく壊走を始めました。カルタゴ騎兵は逃げる同盟国騎兵を追わず、ローマ軍中央の後方へ回り込みました。ローマ軍の中央戦列は、ほとんどカルタゴ軍中央を突破しかけていましたが、戦列両翼はカルタゴ歩兵が優勢であり、その方面のローマ軍は前進する事ができませんでした。この時点で、ローマ軍中央はV字になりつつありました。そこへ両翼のローマ軍騎兵を壊走させたカルタゴ軍騎兵が後方を攻撃しました。後方を付かれたローマ軍はパニック状態に陥って極度に密集したため、中央の兵は圧死する者まであらわれました。前方をガリア歩兵、両側面をカルタゴ歩兵、後方をカルタゴ騎兵によって完全包囲下に置かれたローマ軍は、逃げる事も中央突破もできずに殲滅されました。この戦闘でローマ軍はおよそ60000名の死傷者(大半が戦死)を出しました。また、野営地に残されていた10000名は、カルタゴ軍に降伏し捕虜となりました。その日の最高指揮官であるウァロは戦場から逃れましたが、一方の指揮官であるパウルスは戦死しました。また中央の指揮を任されたセルウィリウスも戦死し、他に約80名の元老院議員が戦死しました。当時の元老院は、最大でも300名を超えなかったため、4人に1人以上が死んだ事になります。一方のカルタゴ軍の損害は6000名ほどであり、その大半は戦列中央のスペイン・ケルト兵でした。このように、この戦闘におけるローマ側の人的損失は甚大なものでした。ローマ市民および元老院に大きな衝撃をもたらしました。後年、この戦いは包囲殲滅戦のお手本とされ、ドイツ帝国陸軍のシュリーフェン・プランや、「日露戦争」の「奉天会戦」の日本軍もこれを参考にしました。

次に、ローマ内戦:ゼラの戦いです。グナエウス・ポンペイウスが率いるローマ軍に対して頑強に抵抗していた父・ミトリダテス6世を自害に追い込む形で、紀元前63年にミトリダテス6世の後継としてポントス王となったファルナケス2世は、ボスポロス及びキンメリア(共に現在のクリミア地方)の属王として認められました。その後、ファルナケス2世に影響を及ぼしていたポンペイウスがジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)との内戦に突入すると、ファルナケス2世はその間隙を縫って、父の時代の領土を回復するため小アジアで挙兵しました。紀元前48年12月、ファルナケス2世は小アジアに駐屯していたシーザー派のグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスが指揮を取る第22軍団が主体のローマ軍を破って、コルキス、アルメニア並びにカッパドキアへと勢力を拡大しました。それに対して、「ナイルの戦い」で勝利を収めて以降、アレキサンドリアに滞在していたシーザーはシリア属州に入って甥のセクストゥス・ユリウス・カエサルと数日過ごした後、小アジアへと入りました。シーザーが率いるローマ軍の兵力について、2つのコホルスから構成された第6軍団、第22軍団、第36軍団などのローマ軍団から構成、ポントス軍は領内から徴兵した歩兵部隊を主力として、他に騎兵や傭兵部隊から成る約20000の軍でした。紀元前47年8月、両軍はゼラで対峙しました。ローマ軍は小高い丘の上に陣地を構えたため、ポントス軍は丘を駆け上ってローマ軍へ攻撃を仕掛けましたが、ローマ軍はポントス軍の攻撃を凌ぎました。やがて、ポントス軍の攻撃が鈍った頃合を見て、ローマ軍は丘を駆け下りてポントス軍を攻撃しました。結果としてローマ軍は4時間ほどの戦いでポントス軍を破りました。この際に、シーザーは元老院に対して「来た、見た、勝った」という有名な報告をしました。ファルナケス2世はボスポロスへ逃れて再起を図りましたが、軍内部の裏切りに遭って殺害されました。

その次に、筒井順昭が死去です。筒井順昭は、筒井城を居城にして大和に勢力を持っていた越智氏や木沢長政などの敵を次々と破って勢力を拡大し、袂を分かちあっていた十市遠忠と和し、大和一国をほぼ手中に収め、筒井氏の全盛期を作り上げました。しかし、病を苦にして家臣数人を連れて突如、比叡山に隠居しました。天然痘・脳腫瘍を患っていたといいます。翌年に死去し、嫡子の藤勝(順慶)はわずか2歳の幼子でした。弟の順政、順国らが補佐し、大和支配を保ちました。筒井順昭は死の間際に家臣を集め、子の順慶への忠誠を誓わせるとともに敵を欺くため、自分と良く似ている木阿弥(もくあみ)という奈良の盲目の僧を身代わりに立て、3年間、死を隠す事を命じました。木阿弥は身代わりの間、贅沢な暮らしができましたが、筒井家臣団が順慶の下で体制を整えなおした後に奈良へ帰され、元の身分に逆戻りしました。この事から「元の木阿弥」という故事成句が生まれました。

その次の次に、御館の乱終結です。1579年4月19日、上杉景虎が自刃しました。越後を二分した内乱「御館の乱」は上杉景勝が勝利し、上杉謙信の後継者として上杉家の当主となりました。しかし、その後も本庄秀綱や神余親綱が抵抗を続けました。栃尾城主・本庄秀綱は、落城寸前に御館を脱出しました。三条城主・神余親綱らと共に上杉景勝に抵抗を続けましたが、1580年6月4日に栃尾城が落城すると会津方面へ逃亡しました。その後は佐々成政に仕えました。神余親綱は、一旦は和議の調停を申し出ましたが決裂しました。山吉景長が三条城内の旧臣に内応を誘ったため、それに応じた者により1580年8月2日に討たれました。こうして、「御館の乱」は最終的に終結しました。この内乱で上杉氏の軍事力が衰退し、織田信長などの周辺強豪勢力からの軍事侵攻に苦慮する事になります。また、恩賞の配分を巡って上杉景勝方の武将間に深刻な対立をもたらしました。戦後に与えられた恩賞は、上杉景勝の出身地である上田衆に多く与えられました。これに、新発田重家ら国人衆が猛反発しました。安田顕元は、新発田重家と上杉景勝との仲裁に乗り出して両者の説得を試みましたが上手くいかず、両者の板ばさみとなりました。結局、安田顕元は責任を感じて面目を保つために自害しました。これにより、新発田重家は上杉景勝からの離反の意志を固め、蘆名盛隆、伊達輝宗と通じて反乱を起こします(新発田重家の乱)。この反乱鎮圧に7年もの歳月を要す事になります。

そのまた次に、宝島事件:1824年8月2日昼頃、宝島の北方に外国船が現れました。英国の捕鯨船で、70人の乗組員がいました。乗組員7人が乗った小艇が岸へ漕ぎ出し、番所の下に着船しました。番所には代官に相当する在番役人2人が詰めていましたが、出張で島を留守にしており、藩庁から派遣された詰横目が数人と島役人が数人いるだけでした。横目達が彼らと面談し、身振り手振りで彼らが牛を欲しがっている事がわかりました。しかし、牛を与えるのは国禁のため断ったところ、彼らは帰船しました。翌3日午前10時頃、英国人14人が再び小艇2艘でやってきました。彼らは今度は、酒や麦菓子、金銀の貨幣、衣類、剃刀、鋏、時計などを持参し、これらと引き換えに牛を譲ってくれと要求しました。番所横目・吉村九助らが再び拒絶し、その代わりに米や野菜を提供したところ、喜んで帰っていきました。しかし、翌日に小艇3艘で30人が上陸し、番所に向けて銃を放ち、本船からも大砲を撃ちかけてきました。彼らは放牧してあった牛1頭を射殺し、2頭を捕獲して持ち去ろうとしました。番所には吉村九助と薩摩藩の役人が7人しかおらず、武器も鉄砲が数挺、鑓が4、5本あるだけでした。吉村九助は番所の木戸口でリーダーらしき人物に狙いを定めて鉄砲を放つと、左胸に命中して倒れました。それを見て他の英国人達は逃げ出し、本船も姿を消しました。この事件が、「異国船打払令」が発令されるきっかけの一つになりました。

そのまた次の次に、北越戊辰戦争: 大黒・川辺の戦いです。今までの戦いで指揮権が統一されていない攻撃は非効率と言うのを実感した列藩同盟軍は、八藩(会津藩・庄内藩・長岡藩・桑名藩・村松藩・村上藩・山形藩・上ノ山藩)家老の連名を以って米沢藩総督の千坂高雅に列藩同盟軍の総指揮を取るように要請しました。米沢藩は要請を受諾し、以降は千坂高雅がこの方面の同盟軍の総督に、米沢藩参謀の甘粕継成がこの方面の同盟軍の参謀に就任し、千坂高雅の指揮の元で列藩同盟軍初の統一された軍で大攻勢が行なわれる事になります。新政府軍・列藩同盟軍共に布陣を終え、大雨が降りしきる中、押切村の同盟軍本営に置かれた米沢藩砲2門と長岡藩砲2門が一斉に砲撃を開始し、この砲声を合図に八丁沖西部戦線の中之島村・中興野村・押切村・福井村、東部戦線の田井村にそれぞれ集結していた列藩同盟軍は、それぞれの攻撃部署に一斉に攻撃を開始しました。
川辺村の戦い:同盟軍の奇襲により、薩摩藩外城四番隊は撤退しました。しかし、薩摩藩外城四番隊は反撃の為、川辺村に来襲しました。「衝鋒隊」が弾薬が切れの為に撤退すると、残された米沢藩兵はこれと言った抵抗も出来ず、川辺村を奪回されて敗退しました。
十二潟村の戦い:米沢藩兵が進軍を開始し、十二潟村対岸の集落の大口村をまずは占拠しました。大口村占領後、対岸の十二潟村の新政府軍陣地に銃撃を開始しましたが、新政府軍の陣地の堅い守りに退けられました。
筒場村の戦い:米沢藩兵と会津藩兵が攻撃を開始しましたが、この筒場村には新政府軍精鋭の薩摩藩が主力となって守りを固めていたため、長岡藩と村松藩の砲兵が多数負傷しました。列藩同盟軍の砲撃も、会津藩軍事顧問の肩書きを持つヘンリー・スネルが自ら砲を操り筒場村への砲撃を行ないましたが、失敗に終わりました。
大黒村の戦い:長岡藩兵と会津藩兵は、大黒村に突撃しました。高田藩兵が守備していましたが、撤退しました。これを受け、筒場村を守る薩摩藩・山口鉄之助は、十番隊を引き連れて大黒陣地に急行し、大黒村を奪取したばかりの列藩同盟軍に襲い掛かりました。長岡藩兵・会津藩兵・米沢藩兵に囲まれた薩摩藩十番隊は隊長・山口鉄之助と半隊長・皆吉九平太が戦死すると言う大損害を受けて敗走しました。この同盟軍の一斉攻撃と大黒村の陥落を知った本営の山県有朋は、長州藩「奇兵隊八番隊」と長府藩「報国隊二番隊」、加賀藩兵等の援軍を至急大黒村に送りました。大黒村を占領した列藩同盟軍に新手の新政府軍が襲いかかり、体制を立て直した高田藩兵も戦闘に加わった為、列藩同盟軍は大黒村から撤退しました。
亀崎村・赤坂山の戦い:米沢藩の柿崎家教大隊もまた、押切村からの砲声を聞いて進軍を開始しました。二手に分かれて亀崎村と赤坂山をそれぞれ攻撃し、この地を守る大垣藩兵を破って敗走させました。しかし、大垣藩兵と共に亀崎村と赤坂山を守っていた松代藩兵と、浦瀬村を守っていた長州藩「奇兵隊四番隊(隊長・能見兵児)」が亀崎村と赤坂山奪回の為に出撃しました。激戦の末に、米沢藩兵は撤退しました。
栃窪村の戦い:長岡藩兵と米沢藩兵は、栃窪村に攻撃を開始しました。しかし、松代藩兵によって迎撃され撤退しました。

さらに次に、戊辰戦争:村上藩家老・鳥居三十郎切腹です。鳥居三十郎は、越後・村上藩の家老です。「戊辰戦争」では村上藩の最年少家老で、「奥羽越列藩同盟」に参加して新政府軍と戦いました。「北越戦争」で村上藩に新政府軍が接近すると、藩論を抗戦か帰順かで統一できず、鳥居三十郎は抗戦派藩士約200名を率いて村上を脱出しました。そして、庄内藩を目指しました。この混乱で村上城は全焼しましたが、村上城下は無傷で残りました。福井藩兵を先鋒とする新政府軍が村上に到着すると、久永惣右衛門、江坂与兵衛らの帰順派藩士は新政府軍の詰所に出頭して降伏しました。村上から退去した鳥居三十郎らの抗戦派藩士は庄内藩兵と合流し、羽越国境の鼠ヶ関で庄内藩兵と共同戦線を取りました。鳥居三十郎は「鼠喰岩の戦い」など地の利を生かした戦いで約1ヶ月もの間、「戊辰戦争」終結まで新政府軍の庄内侵攻を防ぎました。一方、新政府軍に帰順した村上藩士らは新政府軍の要請により、鼠ヶ関に藩兵を派遣しました。その結果、村上藩は両陣営に分かれて戦う事になり、村上藩兵同士が戦うという事態になりました。「戊辰戦争」の後、鳥居三十郎は戦犯として東京に送られ、取調べの後に死罪が言い渡されました。やがて処刑のために身柄は村上に送られ、安泰寺に幽閉されました。藩内では鳥居三十郎の処刑に同情が集まり、処刑前の7月28日に鳥居三十郎を陥れたとして帰順派の代表・江坂与兵衛が抗戦派藩士・島田鉄弥に暗殺される事件が起きました。島田鉄弥は、後に自刃します。このため、鳥居三十郎の処刑は8月2日に延期されました。村上藩は斬首という政府の命令を無視して安泰寺に切腹の場をもうけました。抗戦派藩士として鳥居三十郎とともに戦った山口生四郎が、介錯をつとめました。夕刻に鳥居三十郎は切腹しました。享年29でした。

さらに次の次に、西南戦争:宮崎の戦いです。7月24日、第3旅団は河野主一郎らの「破竹隊」を攻撃し、庄内を陥落させました。同日、別働第1旅団は末吉を攻撃し、別働第2旅団は財部を攻撃しました。そしてついに第3旅団・別働第3旅団・第4旅団が都城を陥落させました。7月25日、薩摩軍の中島健彦や貴島清らの「振武隊」、「行進隊」、「熊本隊」が山之口で防戦しましたが、第3旅団に敗北しました。この時、三股では別府九郎の「奇兵隊」などが防戦していました。7月27日、別働第3旅団が飫肥を攻めて陥落させました。この時、多くの「飫肥隊」隊員、薩摩兵が投降しました。高岡を攻撃するため今別府に集まった第2旅団は7月28日、別働第2旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けました。辺見十郎太・中島健彦・河野主一郎・相良長良らの防戦により政府軍は苦しい戦いになりましたが、やっとの事でこれを抜きました。翌29日、政府軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領しました。都城・飫肥・串間を押さえた第3旅団・第4旅団・別働第3旅団は7月30日、宮崎市の大淀河畔に迫りました。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領しました。7月31日、第3旅団・第4旅団・別働第3旅団は、大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込みました。薩摩軍は増水のため政府軍による渡河はないと油断していたため、抵抗できずに宮崎から撤退したため、政府軍は宮崎市を占領しました。次いで第2旅団により佐土原も占領しました。そこで宮崎市・佐土原と敗北した薩摩軍は、桐野利秋をはじめ辺見十郎太、中島健彦・貴島清・河野主一郎らの諸隊と、池辺吉十郎の「熊本隊」、有馬源内が率いる「協同隊」や他に坂田諸潔が率いる「高鍋隊」も高鍋河畔に軍を構えて政府軍の進撃に備えました。これに対し政府軍は、広瀬の海辺から第4旅団・第3旅団・第2旅団・別働第2旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃の時を待ちました。この時、別働第3旅団は多くの薩摩軍兵捕虜の対応をするために解団しました。8月1日、海路より新選旅団が宮崎に到着しました。この後、一ッ瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かいました。翌2日、各旅団が高鍋を攻めて陥落させました。

さらにまた次に、テニアンの戦いです。「マリアナ沖海戦」で日本機動部隊を撃退した米軍は、サイパン島の攻略を完了し、続いてグアム島、テニアン島の攻略を開始しました。米軍は第2海兵師団の上陸用舟艇100隻以上を島の南西部、テニアン港前方へ一斉に前進させました。しかし、米軍上陸部隊が海岸から200m程に接近した瞬間、一斉に重砲が攻撃を開始し、米軍を撃退しました。また、日本軍の海岸砲台は戦艦「コロラド」に22発の命中弾を与え、駆逐艦「ノーマン・スコット」も命中弾を浴び、艦長以下多数が死傷しました。しかし、これは米軍の陽動作戦でした。米軍第4海兵師団は、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸に上陸しました。水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘のためほとんど全滅し、米軍は日没までに第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、さらに山砲(75ミリ曲射砲)4個大隊を上陸させました。この上陸での、米軍死傷者は240名(うち戦死15名)でした。そして、日本軍による反撃が開始されましたが、米軍の猛烈な弾幕射撃と照明弾による妨害により、日本軍の進撃が遅れました。それにより、約2500名にも及ぶ損害を受けて反撃は失敗に終わりました。この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊の第1大隊長は戦死し、戦車は4両を残すだけとなりました。日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は、第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始しました。日本軍は新防衛線を構築するとともに、民間人の中から16歳から45歳までの男子、約3500名を集めて民間義勇隊6個中隊を編制し、戦闘に協力させました。しかし、アメリカ軍は防衛線を突破し、テニアン市街を占領しました。カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍は反撃を開始しましたが、日本軍は敗れて島南端のカロリナス高地へ撤退しました。緒方敬志連隊長はグアム島の第31軍司令官・小畑英良中将に対し、最後の報告を打電しました。その後、日本軍は三度にわたる反撃を行いましたが、失敗しました。海軍の栗野原大佐、設営隊長・林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死しました。そして、緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊等約1000名が、アメリカ軍に対し突撃を敢行しました。アメリカ軍は、機関銃などにより猛烈な防御砲火を与えたため、日本軍に死傷者が続出し、緒方連隊長は後退中に戦死しました。また角田覚治司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻る事はなく、三和参謀長以下海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令・大家大佐も戦死しました。結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は終結しました。計8010名が戦死しました。

最後に、第二次世界大戦:富山大空襲、八王子大空襲、水戸大空襲です。
富山大空襲:日本全国の都市にアメリカ軍による空襲予告のビラが投下され、そのビラには「富山」の文字もありました。8月2日午前0時ごろ空襲警報が発令され、その後B−29爆撃機174機が来襲しました。先頭機が照明弾を投下し、続いて五福地区や桜谷地区の周辺部から焼夷弾を投下し、火の輪で市街地を囲み逃げ場をなくしました。その後、中心部に焼夷弾や小型爆弾を2時間にわたって投下しました。死者2737人、負傷者7900人、被災人口109592人、焼失家屋24914戸(市街地の99.5%) でした。広島、長崎への原子爆弾投下を除く地方都市への空襲としては最も被害が大きいものでした。
八王子大空襲:8月2日の午前0時ごろ、米軍機は伊豆半島から丹沢山を経て八王子に侵入しました。その後B−29爆撃機169機が来襲しました。先行する爆撃機が0時45分から目標を照らすためM47焼夷弾を投下し、0時48分に主力部隊がM17集束焼夷弾を投下しました。2時間にわたって爆撃され市街域の3.6km2のうち2.9km2が焼失しました。2時間で1600トンの焼夷弾が投下され、日本本土空襲では3番目の投下量となりました。死者445人、負傷者2000人以上、焼失家屋14000戸(市街地の80.0%)でした。
水戸大空襲:マリアナ諸島の航空基地を飛び立ったB29、160機は房総半島から霞ヶ浦を通過し、8月2日深夜には水戸市上空へ侵入、午前0時31分頃から2時16分過ぎまで空襲を続けました。投下された爆弾は、およそ1150tにのぼりました。国宝の水戸東照宮(本殿、石之間、拝殿、表門)や、水戸城御三階櫓などの文化財をはじめ水戸市街のほぼ全域を焼失し、死者300人、負傷者1293人、罹災人口5万605人の被害を出しました。
この、8月1日〜翌2日未明にかけて行われた長岡・水戸・八王子・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と「陸軍航空隊発足記念日」を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量が「ノルマンディー上陸作戦」を上回るように計算されていました。

今日の誕生日:五郎八姫、中内功、高橋悦史、須田開代子、ポール牧、山野さと子、渡辺久信、大田紳一郎(元BAAD)、真璃子、友近、曽ヶ端準、播戸竜二

今日の記念日:金銀の日、カレーうどんの日、博多人形の日、パンツの日、ハーブの日、ビーズの日、おやつの日、竹本淳二(ラガー刑事)殉職

今日の「今日訓」:本日は、1928年にアムステルダムオリンピックで三段跳の織田幹雄が日本人初の金メダル、陸上800mで人見絹枝が日本人女性初のメダルとなる銀メダルを獲得した事で「金銀の日」、6月2日が「カレーの日」、7月2日が「うどんの日」である事から「カレーうどんの日」、「は(8)かたに(2)んぎょう」の語呂合わせで「博多人形の日」、「パン(8)ツ(2)」の語呂合わせで「パンツの日」、「ハ(8)ーブ(2)」の語呂合わせで「ハーブの日」、「8と2」で「B2(ビーズ)」の語呂合わせで「ビーズの日」、「おや(8)つ(2)」の語呂合わせで「おやつの日」となりました。
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