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2015年08月01日00:54

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8月1日の日記

今日の出来事:1203年−阿野全成誅殺、1507年−永正の錯乱:細川殿の変、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が象潟に到着、1924年−阪神甲子園球場が竣工、1944年−アンネ・フランクが最後の日記を書く、1945年−第二次世界大戦:長岡空襲、2000年−新五百円硬貨発行

今日は、阿野全成誅殺です。阿野全成は、源義朝の七男で源義経の同母兄、源頼朝の異母弟です。幼名・今若丸。「平治の乱」で父・義朝が敗死したため幼くして醍醐寺に出家させられ、隆超と名乗り、ほどなく全成と改名しました。通称・醍醐禅師と呼ばれました。異母兄の頼朝が伊豆国で挙兵しました。それを知った阿野全成は寺を抜け出し、「石橋山の戦い」で源頼朝が敗北した直後に佐々木定綱ら兄弟と行き会い、相模国高座郡渋谷荘に匿われました。下総国鷺沼の宿所で源頼朝と対面を果たしました。源氏一門で最初の合流でした。阿野全成は京都で令旨が出された事を知り、密かに寺を抜け出して修行僧に扮して下ってきた事を語り、頼朝は泣いてその志を喜びました。源頼朝の信任を得た阿野全成は武蔵国長尾寺(現在の川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚しました。阿波局は頼朝の次男・千幡(後の実朝)の乳母となりました。以降、頼朝政権にで地味ながら着実な地位を築きました。しかし、源頼朝が死去し、甥・源頼家が将軍職を継ぐと、阿野全成は源実朝を擁する舅の北条時政と義兄弟の北条義時と結び、源頼家一派と対立するようになりました。先手を打った源頼家は武田信光を派遣し、阿野全成を謀反人として捕縛して御所に押し込めました。阿野全成は常陸国に配流され、源頼家の命を受けた八田知家によって誅殺されました。3男の播磨公・頼全は、京都の東山延年寺で在京御家人によって殺害されました。

次に、永正の錯乱:細川殿の変です。永正の錯乱は、1507年の細川政元暗殺(細川殿の変)を発端とする室町幕府管領・細川氏の内訌です。細川政元は、「応仁の乱」の東軍総大将・細川勝元の子です。1493年(明応3年)、管領・細川政元は室町幕府第10代将軍・足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立して14歳の足利義高(後に義澄と改名)を11代将軍に擁立しました(明応の政変)。専制権力を樹立した細川政元は、女人禁制である修験道の修行をしていたため実子がなく、兄弟もいませんでした。京兆家(細川一門本宗家)には細川政元の後継者がいないため、関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の3人を迎えて養子にしました。これが後の、分裂抗争の芽になりました。1506年、摂津守護となった細川澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰・三好之長が細川政元に軍事面で重用されるようになると、これまで細川政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣と、阿波勢との対立が深まりました。1507年8月1日、修験道に没頭して天狗の扮装をするなど度々奇行のあった細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入りました。そこを細川澄之を擁する内衆の薬師寺長忠、香西元長、竹田孫七らに唆された祐筆・戸倉氏によって殺害されました。さらに翌日、薬師寺長忠らは細川澄元、三好之長の屋敷に攻めて、近江に敗走させました。そして、主君として細川澄之を迎えて細川氏(京兆家)の家督を継がせました。8月4日、細川政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めていた赤沢朝経は、軍を京都に撤退させようとしましたが、一色義有や丹後の国人・石川直経らの反撃を受けて自害に追い込まれました。しかし、もう1人の養子・細川高国は、一族の摂津分郡守護・細川政賢や淡路守護・細川尚春、河内守護・畠山義英と語らい、細川政元の後継者を細川澄元とする事で合意しました。その後、9月5日に弟・薬師寺長忠に滅ぼされた薬師寺元一の子・万徳丸が薬師寺長忠の居城・茨木城を攻め落しました。続いて翌6日、細川高国らは香西元長の居城・嵐山城を攻め落としました。そして9月7日、三好之長が逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れて、急いで京に戻りました。三好之長は、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒を細川高国勢と共に攻め落としました。細川澄之は自害、薬師寺長忠、香西元長は討死しました。翌8日、細川澄元は将軍に拝謁し、細川京兆家の家督と管領職を継ぎました。「明応の政変」で将軍職を追われた前将軍・足利義尹は、1499年に西国一の大名である周防の大内義興を頼っていました。細川政元の暗殺後、室町幕府はその動向を恐れて、安芸・石見の国人らに大内義興追討を命じました。しかし、大内義興は足利義尹を擁して周辺国に参加を呼び掛けると、上洛軍を起こしました。そして、軍勢を率いて山口を発すると備後国の鞆で入京の時期を窺いました。この時、三好之長の専横に反発する畿内の勢力は、細川高国の元に結集していました。細川澄元は大内義興と和議を結ぶための交渉に、細川高国を差し向けようとしました。しかし、逆に細川高国は伊賀に出奔し、足利義尹・大内義興と結んで摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らの畿内国人を味方につけました。1508年、細川澄元や第11代将軍・足利義澄は近江に逃れ、細川高国が入京しました。足利義尹・大内義興は和泉国堺に到着すると、出迎えた細川高国が細川京兆家の家督を継ぎました。前将軍・足利義尹は堺から京に入り、再び将軍となりました。細川高国は右京大夫・管領となり、大内義興は左京大夫・管領代・山城守護となりました。この1年の間に、細川氏(京兆家)の家督は細川政元から細川澄之、細川澄元、細川高国と目まぐるしく入れ替わりました。しかし、この後も京を押さえた細川高国らと、細川澄元、その子・晴元、三好氏ら阿波勢との攻防が長期にわたって繰り返される事になります。

その次に、奥の細道:松尾芭蕉が象潟に到着です。ここでこの句を詠みました。「象潟や 雨に西施(せいし)が ねぶの花」、「汐越(しおこし)や 鶴はぎぬれて 海涼し」

その次の次に、阪神甲子園球場が竣工です。大正年間に始まった全国中等学校優勝野球大会は、豊中球場で始まり、第3回大会から兵庫県武庫郡鳴尾村にある鳴尾球場で開催されていました。しかし、人気の高まりにつれて同球場の仮設スタンドでは大勢の観客を収容しきれなくなっていました。後に試合中に観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断するという事態にまで発展し、特に1923年の第9回大会では鳴尾球場に近い地元甲陽中が決勝戦で和歌山中との近畿対決を制した事から、中等学校野球人気がピークに達しました。この事態を重く見た主催の大阪朝日新聞は、本格的な野球場建設を提案しました。また鳴尾球場の所有者である阪神電鉄も、鳴尾球場と同じ鳴尾村に流れていた申川(さるかわ・武庫川の支流)を廃川とした後にできた埋め立て地の開発の一環で新球場の計画を進めていたため、利害関係が一致しました。当時国内にあった野球場では参考になるものがなく、ニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツの本拠地、ポロ・グラウンズをモデルに設計されました。完成するまでは枝川運動場と名づけられていましたが、この年が十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)という60年に1度の縁起の良い年である事から、後に「甲子園大運動場」と命名されました。起工式は1924年3月11日に行われ、同年8月11日に竣工式が行われました。

最後に、長岡空襲です。1945年8月1日の日本時間午後10時30分から翌8月2日の午前0時10分の間に、アメリカ軍によって行われた空襲です。「B−29」125機が、新潟県長岡市の中心部市街地を標的に焼夷弾を大量に投下しました。これにより中心部市街地の約8割が焼失し、1470人余りが死亡しました。罹災戸数は11986戸に及びました。これを慰霊して、平潟神社には「長岡市戦災殉難者慰霊塔」が建立されました。また、長岡駅の駅前には「長岡戦災資料館」が開館しています。

今日の誕生日:菅原道真、光厳天皇(南北朝時代の北朝・初代天皇)、後小松天皇(第100代天皇)、室生犀星、成田きん、蟹江ぎん、 水谷八重子(初代)、金田正一、三ツ矢歌子、ジャッキー吉川(元ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)、小野武彦、田村正和、あだち勉、つのだ☆ひろ、永野一男(豊田商事の創業者)、森田順平、津田恒実、若田光一、長谷川滋利、成田昭次(元男闘呼組)、森洋子(元C.C.ガールズ)、MCU(KICK THE CAN CREW)、米倉涼子、冨永愛、NESMITH(EXILE、THE SECOND from EXILE)、柊瑠美、黒川智花、ティファニー(少女時代)、和田彩花(スマイレージ)

今日の記念日:世界母乳の日、水の日、観光の日、花火の日、愛知発明の日、バイキングの日、麻雀の日、肺の日、パインの日、八朔、やっぱり家の日、カフェオーレの日、歯が命の日、はっぴの日、パーマの日

今日の「今日訓」:本日から8月、「葉月」です。新暦では、9月下〜10月になるので、木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名です。他には、稲の穂が張る「穂張り月(ほはりづき)」という説や、雁が初めて来る「初来月(はつきづき)」という説、南方からの台風が多く来る「南風月(はえづき)」という説などがあります。また、「月見月(つきみづき)」の別名もあります。「世界保健機関(WHO)」と「国際連合児童基金(ユニセフ)」の援助の元に「世界母乳連盟」が1992年に制定した「世界母乳の日」、国土庁が1977年に、一年で最も水の利用が多くなるこの時期に、国民一人一人が水の有限性、水の貴重さを理解し、併せてダム等の水資源開発の必要性を啓蒙するために制定された「水の日」、1965年5月の閣議で制定され、観光客が多い8月の1日〜7日を観光週間とし、その1日目の8月1日を「観光の日」、「第二次世界大戦」後、花火が解禁された1948年8月1日と、東京の花火問屋で大規模な爆発事故があった1955年8月1日と、世界一と言われる花火大会「教祖祭PL花火芸術」の開催日(毎年8月1日)を記念して「花火の日」、1897年、豊田佐吉が日本初の動力織機である「豊田式木製動力織機」を発明した事を記念して「愛知発明の日」、1958年、帝国ホテルに北欧の食べ放題料理「スモーガスボード」をモデルとしたレストラン「インペリアルバイキング」がオープンし、ここから日本では食べ放題の事を「バイキング」と呼ぶようになった事で「バイキングの日」、初穂などを恩人に贈る日「八朔」、麻雀牌の「8(パ)1(イ)」の語呂合わせで「麻雀の日」、「8(は)1(い)」の語呂合わせで「肺の日」、「8(パ)1(イン)」の語呂合わせで「パインの日」、「8(や)っぱり1(イ)エがいちばん」で「やっぱり家の日」、6月1日が「世界牛乳の日」で、10月1日が「コーヒーの日」である事から、その真ん中の8月1日を「カフェオーレの日」、「歯(8)が命(1)」の語呂合わせで「歯が命の日」、「はっ(8)ぴ(1)」の読む語呂合わせで「はっぴの日」、「パーマ(8)いいね(1)」の語呂合わせで「パーマの日」となりました。
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