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2015年07月23日23:00

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これもまた「二次創作」の問題

「ひょっこりひょうたん島」舞台化に原作者・井上ひさし氏の妻が反対表明 設定やキャラクター名「使用されるべきではない」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=3530882

著作権法に基づいて判断した場合、井上ユリ氏とこまつ座のどちらが正しいかというと、これはこまつ座の方が正しいのである。
タイトル、設定、アイデア、キャラクターに著作権は生じないというのが著作権法の基本的な考え方だからだ。
これらに著作権が発生すると認定してしまうと、殆どの創作が立ち行かなくなってしまう。

まず、タイトルについて見てみよう。
手塚治虫の初期SF三部作『ロストワールド』『メトロボリス』『来るべき世界』は、それぞれ、コナン・ドイル、フリッツ・ラング、H.G.ウェルズにオマージュを捧げたものだ。歌謡曲が既成の小説や映画からタイトルを拝借することは枚挙に暇がない。山口百恵『禁じられた遊び』はルネ・クレマンの映画、沢田研二『勝手にしやがれ』はジャン・リュック・ゴダールの映画、松田聖子『風立ちぬ』は堀辰雄の小説からの「いただき」である。もちろん作詞家は原著者に許諾などは取っていない。
タイトルは固有名詞ではあるが、普通名詞を流用したものも少なくない。「愛」という言葉を誰かがタイトルに使ったら、もう誰も「愛」というタイトルの小説も音楽も漫画も映画も作れなくなってしまうのか? 「夢」は?
「冒険」は?
これらの単語を作権で縛ってしまえば、該当する作品は全て絶版、廃盤にしなければならなくなる。それは既に「法の濫用」であり、「表現の自由」の侵害にほかならない。著作権法は、公共の利益を損なってまで運用されてはならないのだ。

設定、アイデア、キャラクターについでも同様だ。創作の原点を辿れば、神話やら民話に元ネタになるものは腐るほどある。そこまで遡らなくとも、ある作品を「換骨奪胎」して「新作」を作ることはどの創作の世界でも普通に行われている。
『牡猫ムルの人生観』が漱石の『吾輩は猫である』
になり、黒岩涙香の『幽霊塔』が江戸川乱歩『幽霊塔』に、果ては『ルパン三世 カリオストロの城』になる。『ロミオとジュリエット』を現代アメリカを舞台に「改作」したのが『ウエストサイド物語』であることは有名な話だ。

それらの例は、著作権にうるさくなかった時代の話ではないの? と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれない。
現代は、ちょっとでも類似点が見つかれば、これは「盗作」だと騒動になることは頻繁にあって、実際に盗作がバレて作家が筆を折った、という例も確かにある。
しかし、これは盗作だと訴えられたのに、著作権侵害には当たらないと判断された例もちゃんとあるのだ。
NHK大河ドラマ『宮本武蔵』が、一部、黒澤明『七人の侍』のアイデアをパクったとして訴訟になった。野武士たちが攻めてくるのを、数騎ずつ村の中に誘い入れて倒す、『七人の侍』のクライマックスで黒澤明が創案したアイデア、それと全く同じ設定を、脚本家の鎌田敏夫は「流用」した。しかしこれを裁判所は「盗作」とは認めず、原告の黒沢プロダクションの方が敗訴した。
「各個撃破」は戦闘における常道のようなものである。これをまた規制の対象としてしまっては、戦争ものも時代劇も作れなくなってしまう。あまりにも流用の仕方が露骨だったので、節操がない印象はあったが、法に問われる範疇にはない。

では、はっきりと著作権侵害、「盗作」だと認められるのはどういうケースなのか。
セルジオ・レオーネが『用心棒』を無断でリメイクして『荒野の用心棒』を作ったときには、これはレオーネ側が謝罪して著作権料を支払っている。ここから先は「盗作」という境界線は、いったいどこにあったのか?
『荒野の用心棒』はアイデアや設定をパクっただけではない。「台詞」もまた、『用心棒』をまんま翻訳したものを、大部分、流用していたのである。

小説や詩、戯曲の場合は、台詞、フレーズ、文章、マンガや映画の場合はキャラクターデザイン、ビジュアル、絵柄、それらがオリジナルとしての価値を有し、著作権保護の対象となる唯一無二のものなのだ。
小説の中にミッキーマウスというキャラクターを登場させても何の問題もない。しかし、マンガで「あのまんま」のキャラを描いたら、たちまち怖いおじさんたちがやって来るのだ。
マンガ同人誌のパロディーの殆どが「セーフ」であるのは、キャラクター自体は原典から借りてきてはいるが、そのデザインは、二次創作者たち自身の絵柄でもって描かれているからである。
「名作」との評価を受けながら、藤子プロから訴えられて賠償させられた『ドラえもん』最終回の二次創作、あれは「絵柄まで」オリジナルと区別がつかないレベルまで真似ており、なおかつ装丁までてんとう虫コミックスを模倣していた、その点に問題があったのだ。

そうなると、訴えられた場合、一番「危ない」のは、実は「田中圭一」ということになってしまうのだが――。
彼の場合、絵柄の模写はオリジナルを「盗作」することが目的ではない。本物と区別をつかなくして自作を売る、偽物を本物と見せかけるためになされる模写とは本質的に違っている。
田中圭一の模写は、単なる模写の場合は批評のための「引用」であるし、パロディーの場合は、キャラクターデザインが内包している表現力を借りながら、意味の組み替え、ずらしを行っている。その結果、「田中圭一にしか描けない」オリジナルな作品となっている。たとえどんなに手塚治虫に似ていても、松本零士に、永井豪に、本宮ひろしに、藤子・F・不二雄に、西原理恵子に似ていても、田中圭一作品は田中圭一以外の何者にも描くことはできないのだ。

かつて、西村京太郎は、『名探偵なんか怖くない』に始まるシリーズで、明智小五郎、エラリー・クイーン、エルキュール・ポアロ、メグレ警視を競演させた。キャラクターをそのまま使用するのはいかがなものかという批判は確かにあった。しかし、小説の内容は、事件もトリックも、全て西村京太郎のオリジナルである。乱歩の遺族はおそらく小説の存在を知っていたと思われるが、訴えることはしていない。

演劇の世界では、「設定やキャラクターを借りるだけ」でオリジナル作品を作るという例は結構多い。別役実『天才バカボンのパパなのだ』、渡辺えり『ゲゲゲのゲ』、大橋泰彦『ゴジラ』などなどである。おそらく誰一人として原作者に許諾を求めた作家はいないだろう。
舞台版『ひょっこりひょうたん島』は、原作の井上ひさし、山元護久の脚本は一切使わない意向のようである。設定を借りるだけ、キャラクターを借りるだけであるなら問題はないし、人形を生身の人間が演じるわけだから、ビジュアルも違っている。井上ユリ氏がどんなに製作中止を求めても、仮に訴訟を起こしたとしても、最終的には「別物」と見なされて、公演は実施されることだろう。

しかし、ということは、あの『ひょっこりひょうたん島』のテーマソングは、今回の舞台では決して歌われないということになる。
海賊トラヒゲの歌の歌詞も変えられるだろうし、ドンガバチョは明日にしましょ明後日にしましょとは歌わずに今日やれることは今日やりましょ、とか歌っちゃうかもしれないのだ。
そんなのガバチョじゃねえ。
当然、「原作・井上ひさし、山元護久」ともポスターには書けないはずで、こまつ座のHPを見てみると、確かに速報に原作者表記はない。けれども音楽はオリジナルの宇野誠一郎の名前がしっかりクレジットされているのだ。これは、作曲家の遺族にだけは許可を得たってことなのかね? でも歌詞は元のまんまじゃ使えないよ?
原曲の歌詞のまんまで歌った途端に著作権侵害は成立しちゃうが、脚本の宮沢章夫は、替え歌にするつもりなんだろうか? あるいは著作権の問題を「軽く」考えているのではないかという気もして、いささか不安に感じているのである。

素直に井上、山元両氏の遺族に許諾を取って、リメイクを作るってことができなかったのだろうか? そもそもこまつ座と井上ユリ氏との間に長年の確執があって、それで今回のような事態が起きたのではなかろうか。こまつ座が井上氏に対して、「許諾は要らないけど、一応、話しはしたよ」的な素っ気ない通知をした経緯から、何となくその辺りの表に出せない事情が察せられるのである。
観客の立場から言わせてもらえれば、作り手の裏事情などはどうでもよいのである。魅力的なキャストを配していながら、企画が頓挫してしまうことの方が困る。脇役のマシンガン・ダンディを主役に持ってきて、まるでイメージが違う井上芳雄をキャスティングしているのも意表を突いているが、もっと物凄いのはトラヒゲの小松政夫にドンガバチョの白石加代子である。これで原作どおりになるわけがない。ハカセが山下リオってのはもう、萌えだよな(笑)。
原作から離れた方が面白い舞台になることは往々にしてあるから、結構、期待しているのだ。著作権保有者の権利の濫用は極力避けてほしいと思う。

でもどうせ福岡までは来ないんだよな、この舞台(涙)。
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