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2015年07月15日22:24

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十分間でざっくり「キリスト教ってどんなの?」

 お元気ですか。この文書はキリスト教の要点をできるだけ簡単にお伝えするためのものです。私の勝手で書くのですが、読んでいただければ嬉しいです。
 
キリスト教は、ひとことで言えば「イェス・キリストを信じる者は救われる」という、聖書のメッセージです。「イェス」は「神は救い」という意味で、「キリスト」は「救世主、油注がれた者」と言う意味です。名前にあたるのは「イェス」の方であり、「イェス・キリスト」と言う場合は「イェスはすなわち救い主」という意味になります。

聖書によれば、人間は誰一人として善悪、正誤の判断を誤りなく行うことができません。あくまでも聖書によればです。私の考えではありません。聖書によれば、良かれと思ったことも、神の目から見れば的外れということです。なぜ的外れをおこすのかと言うと、誤情報を人間のブレインに送り込む、全ての人間の見えざる敵が多数存在するからです。その敵達とは、元々は神に仕える天使達でした。その中でも最も優秀な天使が、神に反逆罪を犯しました。自分が神になろうとしたのです。無謀な挑戦でした。神は全てのものの創造主であり、どんなに優れた天使も神の被造物にすぎません。神が、ご自身を打ち負かすものをつくるわけがありません。反逆を犯した天使は、地上に投げ落とされました。それが「悪魔」です。その際悪魔は、自分の手下として自分に従わせる沢山のグルの天使達も連れて地上に落ちました。悪魔とその手下達を総称して「悪霊(あくれい)」と呼びます。悪霊達は地上にさまよって暮らし始めました。
その後で人間が創造されたのです。神は人間を愛されました。悪霊達は、自分達より後に地上にやってきた人間が、神に良くしてもらっているのを見て、悔しくて仕方がありません。なぜなら悪霊達は、ゆくゆくは永遠の火の池(地獄)で苦しみを受けることが宣告されているからです。そこで、妬みにかられた悪霊達は、人間も自分たちと共に地獄に陥れるための作戦を練り、実行するようになりました。すなわち、人間に誤情報を与えて神に反逆させ、神の前に有罪とさせるというやり方です。
人間の目から見て、どんなに立派な愛と正義の人でも、神の目から見れば的外れ、有罪となってしまいます。神は義の方ですから、有罪者を地獄に送らずに「見なかったことにする」ことができません。ところが同時に神は愛の方ですから、有罪者であっても人間を愛してやみません。地獄は元々悪霊達のためのものであり、人間には行ってもらいたくないのです。人間には永遠の天国で暮らしてもらいたいと、神は願っておられます。
そこで神は人間を救う手だてを講じました。子なる神を人間として地上に送り、全ての人間の身代わりとなって罪を背負わせ、十字架刑により処刑を受けさせるという方法です。その「子なる神」が、すなわちイェスです。イェスは神ですが、人として地上に来られ、人として確かに究極の苦しみを味わい死にました。しかし、神の計画と力によってよみがえり、40日間再び地上に姿を現した後、天に昇って今も父なる神と共におられます。

ここで話は少し脱線します。非常に解りにくいのですが、聖書はたくさんの箇所で「神は唯一」と主張しています。しかし、よく読むと、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」と三つ存在することがわかります。三つなのに一つ。これを色んな喩(たとえ)で説明しようとする人がいますが、どう説明しても、他の聖書箇所と矛盾が生じてしまいます。「だから聖書は誤りがある」とする方もいますが、我々は「人間の理解を超えているだけで、三つなのに一つということがあるのだ。」と解釈しています。この「三つなのに一つ」という不可解な事象のことを「三位(さんみ)一体(いったい)」と呼んでいます。「三位(さんみ)一体(いったい)」という言葉そのものが聖書に出てくるわけではありません。でも、聖書をそのまま受け止めようとすれば、「三つなのに一つ」という事態を認めざるを得ないわけです。

さて話は戻ります。先述の子なる神イェスを自分の救い主として信じ、心に受け入れる者は義とされる、すなわち無罪とされる、地獄に行かずに天国に行けるというのが、聖書のメッセージ、つまりキリスト教の中核となります。聖書には「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」という箇所があります。私は以前はこの箇所がよく解りませんでした。信じるだけで良いのか、口で告白しなければならないのかが、不明だったのです。今はこう理解しています。信じるだけで義と認められるのだから、天国には行ける。しかし、「救われる」というのは、天国に行けるだけのことではなくて、もっとたくさんの特典がついてくる。その特典を得るには口で告白する必要がある…という理解です。正しいかどうかは解りません。念のため口でも告白して、天国に行ったら神様に聞きます。そもそも「救い」とは何か。これも、以前教えてもらったことはありますが、聖書から見てそれが正解という確信もないので敢えて書きません。ただ、「天国永住権は救いの一部にすぎない。他にもたくさんの特典がある。」ことは確かです。

ところで、悪霊達はどんな誤情報を人間に送ってくるのでしょうか。それは実に様々であり、巧妙です。例えば誤解です。「あの人は、私に嫌な思いをさせようとしているに違いない。だから、やられる前に防御しよう。」こんな思いを人間のブレインに送り込んでくるのです。家庭崩壊、犯罪、戦争等の元となります。

キリスト教が迫害を受ける要因でもあるのですが、聖書は「イェスの他に救い主はいない」と主張しています。もしこの主張がなければ、私は、伝道はしません。かわりにこう言うでしょう。「私はキリスト教ですが、あなたは○○教ですか。あの方は無神論ですか。それもいいですね。どれが本当なんて判らないですもんね。」
しかし、事実聖書が「イェスの他に救い主はいない」と主張しているのに、私がそれを知りながら、なおかつそれを信じながら、人に伝えずに黙っているとしたら、私は恐ろしく残忍なクリスチャンということにならないでしょうか。「自分だけ天国に行ければよい。他の人は、地獄へどうぞ。」と言っているのと同じことではないか、と思ってしまうのです。私はそんな残忍なクリスチャンにはなりたくありません。

世の中にはたくさんの宗教があり、「死後素晴らしいところへ行ける」と教える宗教もたくさんあります。キリスト教は、そんなたくさんの宗教の中の「選択肢の一つ」と多くの人は捉えています。しかしそれも、聖書を基準にして考えれば、悪霊達が仕掛ける重大な誤情報だということになります。天国への道は人間にはひとつ(イェス・キリストを信じること)しか与えられていないと書いてあるのに、もし世の中にふたつの宗教があれば、それだけで確率は2分の1です。間違えた方を選択した人は永遠の火の池で苦しまなければなりません。ところが世の中には、ふたつどころか、無数の宗教が存在します。なんという恐ろしい事態でしょうか。「そんな馬鹿な。もしそれが事実だとしたらひどい神様だ!」と言いたくなる気持ちは解ります。でもその「ひどい神様だ!」という思いも、悪霊が送ってくる誤情報だと私は考えます。神様の価値観は人間の理解を超えています。今は「ひどい神様だ」と思えても、いつかは「神様はひどくない。正しい。」と思える日が来るのかもしれません。「イェス・キリストを信じ自分の救い主として受け入れる」ことは、お金もかからず2秒でできることです。チャンスは生きている間です。死ぬ間際に信じようが、葬式は仏式で挙げようが、タイムリミットまでに信じればセーフ! 天国行きです。でも、人はいつ死ぬか分からない。それに、天国に行くだけじゃなくて色々生きている間も特典を受けたい。そう考えると、本当のチャンスは「今」ではないでしょうか。

最後に、聖書のメッセージには普通に考えて納得いかない点もたくさんあることを正直に伝えておきます。「流産した子は救われないのか」「イェス・キリストなどと言っても解らない知的障害者は」「うちの爺さんはあんなに良い人であなたにも良くしてくれたのに、クリスチャンじゃないというだけで地獄にいるというのか」「あんな多くの人を殺したやつらがクリスチャンというだけで天国に行ったのか」「他の神が偽物なら放っておけば良いじゃないか。なぜそんなに拒絶するのか」等々。これらの中には、説明できるものもあれば、よく解らないものもあります。
最近読んだ本「天国は本当にある」の中で、幼くして臨死体験したコルトン君が、天国でイェスや、流産で死んだ自分の姉に会ってきたというドキュメントがあります。また動画で、無神論者だった美術家が臨死体験中、「祈れ」という声を聞き、たどたどしく祈ったらイェスに会ってきたというものも観ました。これらの情報が事実なら、このような形で地獄を免れ天国に行く人もいるということになるでしょう。その他の疑問点にも説明できるものがいくらかあります。気軽に尋ねていただければ嬉しいです。

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