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2015年07月14日23:12

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7月刊行予定の拙著について

 3年ほど前に新著刊行の予告をしたことがあったが、私のズボラで、そのままになっているが、別の版元から、7月に新著刊行の運びとなった。最初に単著『歴史からの黙示』(田畑書店刊)を出したのは1972年で、22歳の頃だったから、約43年ぶりになるだろうか。むろん、その間には、何点か著書の刊行の話があり、1975年頃に『情況』に連載した長編のバクーニン論も単行本になるはずだった。しかし、いずれも諸般の事情や、私自身が1980年代になると世事としての原稿執筆に興味がなくなったため実現されず、また1985年には隠遁し、著述の世界とは無縁となり、さらには東京から大阪へ帰ったため、よけいに無縁となった。後に人づてに聞いたところでは、私を知る編集者には、私が行方不明になったらしいということだった。
 そんな私を、何人かの友人が再び、世間に引き戻してくれたのだった。まずSNSへ引っ張り出してくれ、次いで2008年にジュンク堂の池袋店で私のトークイベントを企画してくれ(これには、私は、隠遁していて無名に近い私のイベントに、人など来るのかと思ったが、結果はキャンセル待ちの超満員となった。)、併行して少しずつ文章を書き始めていた。
 実は、私はいうまでもないが、1999年に友人に誘われて暇潰しに入った大学を出るまでは最終学歴は高卒のままであり(1969年に京都の元某帝大に落第して以来、そのままだった)、私の最初の著書の批評に「独学、独断、独行」と記されていたが、まさにその通りで、所謂研究者でも評論家でもなく、よくいえば、やはり書評文がいうところの「戦後最年少のイデオローグ」という訳のわからない存在だった(今は、最年少どころか還暦も過ぎてしまったが)。研究者や評論家に比べるとイデオローグというのは胡散臭い存在でもある。真摯な研究でもなければ、適切な評論でもなく、よくいえば過激な、悪くいえば歪な言論を展開するからだ。しかしあえて自負的にいえば、イデオローグのその胡散臭さこそ、言説におけるディオニュソス性の可能な現場ではないかと思っている。
 新著は、最近の文章から、日本の戦争と1968年闘争の関係のもので、アジア主義の黒龍会、日本の純正ファシストとされる中野正剛、三島由紀夫の師でもある蓮田善明から、1970年代の維新革命派の右翼、1968年の全共闘時代の新左翼、連合赤軍、アナキスト、そして戦間期ヴァイマール時代のドイツ保守革命の思想についての文章など、歴史の重層的な構造を取り上げたものから一冊の単行本として編んだものだ。元来、私は編集能力には疎い人間であり、半ば版元の編集の方任せのようなものだが、その版元の彩流社から、拙著の告知案内のようなものが出たようなので、興味ある方はご覧いただければと思う。
 なお現在の予定では、この後、別の版元からエルンスト・ユンガー論を、また別の版元から音楽を基軸とした芸術論の単著を予定している。
・彩流社
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-2143-2.html
・Amazon
http://www.amazon.co.jp/%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96-%E4%BB%AE-%E5%8D%83%E5%9D%82-%E6%81%AD%E4%BA%8C/dp/4779121434%3FSubscriptionId=AKIAJSS6WYQT6TIVEVOA&tag=empa-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4779121434
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