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2015年07月13日10:23

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FB 中井秀和 創価コミュから転載

長井さん、レスありがとうございます。長井さんのように、自分の知恵で判断できる方なら、学会の会則変更が、宗門との法論レベルではなく、過去の学会指導と御書との整合性が全くない支離滅裂な迷走であることは誰にでも分かる事だと思います。学会の教義の中心は御書と学会指導であって、それ以外は我見として退けられた歴史があります。また、一般論としても、仏教の本尊というものは、信仰の対象ですから滅茶苦茶でいいわけがないんですね。創価学会本部は、完全に一線を踏み外しました。そこから透けて見えるのは、戸田先生が邪教と指弾した、商売としての宗教です。
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こんにちは。末法無戒ですし、大聖人は、大御本尊がなければ成仏できないなんて言う無慈悲な方ではありませんよ。ただ、自分の滅後、権力に迎合したり、権威にへつらったり、民衆を見下したりする弟子が出てくる事を想定して大御本尊という御旗のもとに信心の血脈を守るように、ご本尊を示してこられたのだと思いますよ。現に、五老僧が退転し、日興上人が大聖人の血脈を守られた。形式主義は悪ですが、御本仏の精神から逸脱したのでは正法は保てなくなります。法によって人によらざれが御金言ですから。私たちは、大聖人の心に感応するように、日夜、ご本尊に祈っていたわけです。例え、大石寺から破門されたとしても、初代、二代、三代の指導のとおり、遠いお山を思い浮かべて祈っていたと思いますよ。形式主義は悪。法主絶対主義は権威主義とは言っても、法華講の方々のように、ご本尊を大事にする心に信心が宿るのは常識的に見ても分かると思います。学会本部は、大御本尊は謗法の山になったから信受しないと言っていますが、一方的な屁理屈であって、御書と学会指導との整合性はゼロですし、日寛教学を否定するなら、原田会長が日寛上人よりも上に来るわけで、ましてや、ご本尊を表す権能があると言うなら権威主義そのものです。簡単に言うなら師敵対です。
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御書の解釈の問題なのです。草創のSGIでは、しっかり、五座、三座を教えて、御書も丁寧に啓蒙していたのです。海外の同志はばかではないんですよ。それを本部が横着をしたのです。化義を変えるだけならばいいですが、本尊そのものの解釈を変える。これは、明確に日興遺誡置文に違背します。平尾さんも、池田先生の責任を述べておられますが、先生に責任がないとは申しませんが、幹部の不甲斐なさが際立っています。教学を在家だけでやるには、完全に力不足です。百歩譲って、大御本尊を否定する根拠が明確ならまだ話は分かります。論拠が身延が出している歴史的資料ではなく、謗法の山だからと少年部でも顔をしかめる稚拙な論理です。完全に悩乱しています。頭破炸七部です。
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