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2015年06月28日18:53

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【拡散願い!!】『日本が支那を侵略した…は、大ウソ』支那事変(日中戦争)は支那が起した

【拡散願い!!】『日本が支那を侵略した…は、大ウソ』支那事変(日中戦争)は支那が起した
http://goo.gl/VNH2Y7  

史実を世界に発信する会の茂木さんが、実に明快な論考を書かれたのでご紹介します。
タイトルは、ずばり「日中戦争は中国が起こした」です。

論文そのものは、下段に全文を掲載しますが、その解説というか、流れと要旨を、わかりやすいようにねずブロ流で、ご紹介したいと思います。

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一般的に、支那事変(日中戦争)は、盧溝橋事件が始まりとされているとされています。
けれど、これは大きな間違いです。

盧溝橋事件というのは、昭和12(1937)年7月7日の真夜中に、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋近くで夜間演習をしていた日本軍が、突然発砲を受けた、という事件です。

このとき日本軍は、演習中でしたが、実弾を携行していません。
つまり、日本軍は「銃は持っていたけれど、弾を持っていなかった」のです。
ですから、当然、応戦はできません。
なにせ撃ち返す弾がない。

これは、たいへん危険な状況です。
時代が時代なのです。

日本軍のすぐ近くには、蒋介石率いる国民党軍がいました。
正式名称は、国民革命軍第二十九軍です。
兵力10万人の大軍です。

ところが、この国民党軍も、日本軍が発砲を受けた同時刻に銃撃を受けています。
日本軍は受けた銃撃を、国民党軍によるものと思い込んだ。
けれど、国民党軍も日本軍によって銃撃を受けたと思い込んだのです。

この発砲がひきがねになり、日本と国民党軍との間に、小紛争がおきます。
けれど、両軍とも、妙に腑に落ちない。
両軍は使者を出し、現地で事件を拡大しないように交渉し、事件発生の5日後には、日支両軍は停戦協定を結んでいます。
日本軍も国民党軍も、どちらも戦いたくなどなかったのです。

では、いったい誰が、夜陰にまぎれて両軍に発砲し、戦闘状態を招いたのか。

支那共産党の周恩来首相は、昭和24(1949)年10月1日の「中華人民共和国」成立の日に、
「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」
と発言しています。

支那共産党の首相自らが、犯人は自分たちであったと自白しているわけです。
さらにいまも支那共産党軍の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきり書かれています。

加えて支那共産党は、盧溝橋事件が起きた翌日(7月8日)には、「対日全面抗戦」を呼び掛けています。
盧溝橋事件が起きる事を知っていたからできた手際良さです。

要するに盧溝橋事件は、支那共産党による「謀略」です。
つまり日本軍による侵略行為ではない、ということです。

「丸腰」で演習していた日本軍が「銃撃を受けた」と称して、自ら好きこのんで武装している10万の大軍と戦闘状態にはいる。
常識で考えても、あり得ないことです。

ところが村山富市などは、内閣総理大臣当時にこの盧溝橋を訪れ、
「盧溝橋の日本軍侵略行為の往事を反省してきた」などと寝惚けた発言をしています。
アホとしかいいようがありません。

この盧溝橋事件が11日に停戦すると、当時の近衛内閣は、この事件を「北支事変」と命名しました。
そして、戦闘の不拡大のための華北派兵を決断しています。
派兵は当然です。
現地の治安を確保しなきゃならない。

いまだって国内で暴動が起きれば、そこに警官隊や機動隊が派遣されます。
治安を保つためには、当然のことです。

ただし、当時の近衛内閣が華北に移動を命じた兵力は、すでに支那に駐屯していた兵力の移動だけです。
内地にいる軍隊の派遣まではしていません。

ところが、7月25日には、北京郊外の廊坊駅で、通信施設修理中の日本軍の少数の部隊が、やはり支那兵に襲われるという事件が起こりました(廊坊事件)。

さらに26日には、北京の広安門で、門を通過中の日本軍の大隊が、縦隊となって門を通過している最中に、突如門が閉ざされ、大隊の隊員たちを門の内外に分断された上、支那兵によって手榴弾と機関銃による猛攻撃を受けるという事件が発生します(広安門事件)。

そして廊坊、広安門で蹴散らされた支那兵たちは、7月29日までに北京郊外50キロにある通州城に終結し、日本軍が外出して手薄になった通州城内で、日本人居留民、260名をきわめて酸鼻な方法で殺害するという事件が起きています(通州事件)。

さらに8月9日には、中国軍は自動車で巡察中の日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と斎藤嶼蔵1等水兵を惨殺されます。
支那国民党は、ご丁寧にもひとりの支那人死刑囚に国民党軍の軍服を着せて、飛行場の門外で射殺しています。
日本側が先に発砲したように見せかけるための工作です。
支那側は、攻撃されたので反撃したとして保安隊員の死体を持ちだしてきて強弁したのですが、弾痕から日本側のものではないことが明らかとなり、その後はシカトしています。

毛沢東伝である「マオ」(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳、講談社、2005年)によれば、このとき国民党南京上海防衛隊司令であった張治中は、支那共産党の国民党への潜入スパイであったが、蒋介石に日本軍攻撃を決断させるために、こうした事件を仕組み、蒋介石に日本との開戦を強く迫ったことが記されています。

そして、こうした事件が支那各地で、7月7日以降、大小合わせてなんと61件も起こったのです。
日本側は、ここまでされてもなお、事件を穏便に処理しようとして、報復戦など挑まず、平和裏に事態を収拾しようと努力しました。
いわゆる「不拡大方針」です。

そもそも当時の支那には、統一政府もなければ警察も、国法もありません。
たとえてみれば、無政府状態に陥った日本で、革マル派やオウムなどが武装して全国あちこちで強盗や殺人、強姦などしたい放題荒し回っているという情景を思い浮かべていただけたら、わかりやすい。
そのなかでも、とりわけ勢力のおおきかったのが、蒋介石の国民党と、毛沢東の支那共産党だったわけです。

そういう無政府状態のなかにあって、各国は自国の居留民や、一般の支那人を守るために、軍隊を支那に駐屯させていました。
なかでも地理的に支那に近い日本は、多数の民間人が支那にいたこともあり、治安維持のために相応の軍隊を出さざるを得なかったのです。

ただし、当時の日本は、国内外の全兵力を合わせても、25万です。
いまの陸上自衛隊の二倍に満たない陸軍兵力しかありません。

一方、軍閥が割拠する支那では、軍閥の陸軍兵力は、なんと210万です。
これは文句なしに世界一の陸軍兵力です。
ちなみに二位がソ連で、160万です。

つまり、日本が支那に武力行使するということは、8倍以上の敵と戦うことになる、ということです。
そしてこれにソ連が参戦すれば、敵の数はなんと19倍です。

しかも当時の国民党兵は、ドイツ軍によって近代装備を支給され、ドイツ式教練を受けた精鋭部隊となっていたのです。

いまどきの左翼は、二言目には、かつての日本は軍国主義だったとか、日本が支那を侵略したのだというけれど、そもそも支那の治安を悪化させたのは支那人自身です。
ドイツ式装備と教練によってすっかり精鋭に生まれ変わり、しかも日本に8倍する世界最大の兵力をもって、日本を叩こうとして、徴発の限りを尽くしていた。

世界の戦争は、常に「軍事バランスが崩れたとき」に起こります。
つまり、どちらか一方が、強烈に「強く」なったときです。
客観的にみれば、当時のアジア情勢は、国の形を失った支那において、軍閥という国際法の適用外の無法者集団が、日本に8倍する兵力と武力を持ち、日本に対して楽勝できると日本を侮り、大陸にいた日本を徴発して起こしていたのです。

日本はあきらかに劣勢でした。
だからこそ日本は、通州事件のような乱暴狼藉に遭いながらも、我慢するしかなかったのです。
それで軍国主義、侵略者が聞いて呆れます。

不戦を希求する日本に対し、支那国民党は8月13日には、こんどは上海において、3万の蒋介石軍が総動員体制の下、居留民保護のために駐屯していたわずか4200名の日本海軍陸戦隊に対して本格的な一斉攻撃をしかけてきたのです。(第二次上海事件)
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