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2015年06月27日02:17

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古高俊太郎と新撰組

文治元年6月5日(1864年7月8日)早朝。武田観柳斉以下数名の新選組隊士が枡屋を急襲。古高俊太郎を捕縛。武器弾薬や証拠となる書類(諸藩浪士との書簡や血判状)を押収。ここまでは事実らしい

壬生屯所前川邸にて、厳しい取り調べを受け土蔵において、二階の床板を外し足首にロープを縛りつけて逆さ吊りにされ、一・二階の隊士が同時に鞭を打ち込む。それでも口を割らない俊太郎に業を煮やした土方歳三は、逆さ吊りのまま足の裏から足の甲まで五寸釘を打ち貫き、その釘に百日蝋燭を立てて火を灯し、釘を伝って溶け落ちる熱い蝋を傷口に流しこませる、という拷問を科して、この拷問により自白はドラマ等で定番だが1970年頃に作られた話しで事実は、ここまでの拷問はしていなかった

枡屋の地下倉庫から見つかった武器弾薬や書き付けが見つかった。これによって京都大火計画の是非について色んな意見があるが、それが可能な武器弾薬を持っていたのは事実だった。京都大火計画なのか戦争用なのかは意見が分かれると思うが古高が自供したのは、それまで盛んに行われてきた親長州浪士による「天誅」の一環として、中川宮邸を放火する計画だったと言う説もある。

御所への放火、朝廷内の要人暗殺、京都守護職暗殺など陰謀を白状したという説もある。これでは尊攘派を名乗っているが利用していただけと言う事になり京都大火はなくとも天皇の住む御所を放火すると言う尊攘派とは真逆の行動になってしまう。御所に火を放ち都を火の海にしようという尊攘派の陰謀説まである。また祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る計画など諸説はあるがテロ行為である可能性は高い

いずれにせよ、尊攘派浪士たちは、長州藩の定宿でもある、三条小橋ぎわの池田屋で具体策を練ることになっていた。新撰組は、八坂神社下の祇園会所に集結し、暮れ五ツ(午後八時ごろ)に出動したが、この時点で、まだその場所をつかめていなかった。だから新撰組は隊を二つに分け最終的に池田屋襲撃となる
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