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2015年06月19日08:10

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出版のいきさつを(久しぶりに買った)週刊文春で読んだが。

酒鬼薔薇を裁き「生きろ」と伝えた元判事 手記の意図を推測
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=3474236
最初は幻灯舎の社長へ直訴したようだ。

記事全体から感じたこと。医療少年院で母親代わりとなって治療してくれた女性の精神科医との関係、そこからの自立が、つまりはもと少年Aの本当の思春期の葛藤が、書きたいという欲求を抑えられなくなった、あの事件までとそれからことを書かなければ、自分のすべてが消滅するという恐怖に襲われたのだろうが、それが贖罪とどこまで繋がっているのか?全文を読んでいない私には判断できない。

少年院で小説をたくさん読んで、三島と村上春樹がお気に入りのようだが、引用されている、いわゆる『文学的な文章』は、模倣の域を出ないと思う。幻灯舎の社長がいうように、才能があるとか、匿名で小説を書けばいい、というレベルとはちがうだろう。それは自己耽溺の匂いの強い文章で、自分を客観化できていないひとつの証明であるのかもしれない。

記事のあとにずらりと並んでいる、いわゆる文化人の感想を読んでも、どの人の見方も納得できない。あの柳田邦男(記憶力がすごい?なんてトンチンカンな賞賛をしている)、関川夏央といった有名どころの分析がちっとも冴えない。本職の精神科医の分析も隔靴掻痒だ。

人は人を殺さなければ殺人者のキモチがわからないとすれば、世界の作家は殺人をしなければホラー小説を書けないか?といえば、もちろんそんなことはない。殺人の過去があるから、人間のリアルに迫れるか?といえば、それもちがう。事実は確かに重いが、それを他者に伝える場合、どれだけ想像力を駆使して、その体験を客観化できるか?だ。

遺族の反発は当然だが、それでも本にしたいという思いはどこからくるのか?それはかれが書いていない、語ろうとしていないところから、発しているのかもしれない。




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