http://9001.teacup.com/sfk/bbs/15788 (写真入り記事)
先ほど投稿した「一日一シャ」で、イスラエル旅行のことについて少しお話しました。
一回目にイスラエルに行った時は、乾電池式のデジカメを持参しました。すぐに電池がなくなるのに、現地でなかなか電池が調達できず、みなさんに分けてもらって何とか写真を撮り続けることができました。
二回目のイスラエル旅行では、スマホ+自撮り棒(セルフィー・スティック)持参で行きました。お互いに写真を撮り合うのもいいですが、時間がかかります。自撮り棒を使うと、すぐに写真を撮れます。「撮ってもらってもいいですか?」と頼んでいるうちに、「さあみなさん移動しますよ!」と声がかかります。
自撮り棒を使うと、とにかく目立ちます。これが一つ難点ですね。そして、目立つゆえに、友だち数人で写真に写るならまだしも、自分ひとりで自撮り棒を使うのはなぜか恥ずかしいです。
なぜ自撮り棒が目立つこと、そして、自分ひとりを自撮り棒で写すと恥ずかしいと感じるかといえば、「人の振り見て我が振り直せ(Able to re pretend that we can look pretend people.)」と言われますが、女の子が1〜2人自撮り棒で撮影している姿を見て、直感的に、「これは恥ずかしいなー!」と思いました。
自撮り棒を天高く伸ばして、一生懸命に笑って撮っている姿は、自分が好きでたまらない、ナルシストっぽさを感じてしまいました。
まして、男がひとりで自撮り棒を伸ばして笑いながら撮影している姿は、恥ずかしさの極みです。チラッと見た時には、見てはならないものを見てしまったような気がして、気を使って見てみないふりをしました。
聖書は、自分を棚に上げて人を裁くことを戒めます。人を裁く前に、同じ基準で自分を裁いた上で、人に語るなら、それは優しい言葉となり、人の心に届きます。
自撮り棒を自分が使わないとしたら、使う人を理解できず、厳しく裁いたかもしれません。しかし、散々、イスラエルで使いましたので、理解できます。但し、人が使っている姿を見て、その後、使わなくなってしまいました。
聖書が禁じる人を裁く内容は、自分を棚に上げて人にとやかくいうことです。
そのためにも、聖書は、「あなたは罪人です」と語りますが、自己中心で、神に背を向けている罪を認め、他の人と同じ原罪を持っていることを知ることが大切です。
次に、その自分の罪が、キリストの十字架の犠牲によって赦されていることを受け入れることです。自分も赦されているのに、人だけを裁くことができるでしょうか?
クリスチャンは、そのようにして謙遜になり、人に優しくなり、愛せるようになっていくのです。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ人への手紙4:32)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ人への手紙3:13)
赦し合い、愛し合って、幸せな人間関係を築かせて頂きましょう。
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