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2015年06月05日23:30

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「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉【59】」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/15779 (写真入り記事)

今日は、一日目の前にある仕事に集中しました。

実際、仕事はやってもやってもなくなりません。それは、秋の日に枯れて落ちた葉っぱを竹ぼうきではくことと似ています。

牧師の仕事は24時間営業です。それはいい過ぎかも知れませんが、実際に何度も夜中に呼び出されて出かけていったことがあります。

教会をスタートした当時、どこからも収入がないので、自給自足しながら伝道をしようと考えました。営業の仕事を2つ掛け持ちでやっていましたが、腰を据えて、教会の中で兼業できる仕事はないかと考えた結果、「便利屋」を開業しようと思いました。

手始めに、近くの鍵屋に弟子入りしようとしました。その鍵屋は警視庁御用達の凄腕の鍵屋で、24時間営業だといっていました。

例えば、深夜に帰宅しようとした人が、自宅前で鍵がないことに気づいて電話してきて、「鍵屋さん、鍵を作りに来てくれませんか!?」といわれるそうです。夜中3時であろうと、飛び起きて出かけるそうです。

「うーん、大変だあ〜」と思いながら聞いていて、実際に、「あなたに鍵の技術を教えてあげてもいいけれど、独り立ちしたら、警視庁に名前を登録します。そして、1ヶ月以内に看板をかけて店を開業できますか!?」と聞かれました。

「『教会&鍵屋&便利屋』という看板にしたらいいかな〜」とか、頭の中でいろいろ考えましたが、即答できずに、「考えさせて下さい」といって帰って来ました。

いろいろ考えると、教会と鍵屋と便利屋の兼業は難しいなーという結論になりました。牧師、鍵屋、便利屋の線引きが難しいですし、どれも私一人でやることは無理だと感じたからです。

立ち消えになりましたが、鍵屋に弟子入りして、鍵屋の技術を身につけた後に、もし鍵屋にならないとしたら、行く末は空き巣狙いの泥棒、窃盗団などに成りかねないから、お店を出すことが条件というのもごもっともですよ。どんな鍵でも開けられちゃうし、鍵のかかった車も動かせちゃうようになるのですから。

「鍵屋の技術を身につけた人が鍵屋にならないということがあってはならない!」と、目をギラっと輝かせながら話した鍵屋のおじさんの顔を今でも思い出します。

ところで、牧師になるためには、通常、神学校で学びます。牧師の資格を得るためには、「M.Div」つまり、「Master of Divinity(神学修士)」という学位が必要です。それは、大学を出た上で、さらに大学院の学びになります。

しかし、そうすると、日本のようなクリスチャンが少数の国では、牧師のなり手がいなくなってしまいます。中卒、高卒の人が神学修士を取得するためには、6年から10年くらいかかることになります。そこで、各種学校や塾レベルの神学校も日本にはあります。中には、教会の中で神学校を開校しているところもあります。

一ついえることは、神学校に入った人は、牧師やそれに準ずる仕事をした方がいいと思います。神学校を卒業して、忠実に一つの教会に仕える謙遜な人も沢山知っていますが、神学校を卒業したのに牧師にならない人の中には、「神学校を卒業した!」というプライドが邪魔して、一信徒として教会員を続けることに耐えられず、教会で仕えるのではなく、斜に構えて、牧師の説教や教会のあり方を批判して教会のみなさんを困らせたり、自宅で一人で礼拝するようになってしまう人もいます。

寺社に油をまいた人は、アメリカの産婦人科医です。神学校は出ていません。

前述のとおり、日本のキリスト教界の神学教育の基準が一定ではありません。全寮制で、たくさんの勉強をし、たくさんの訓練を受けられる学校もありますが、中には、信徒の聖書勉強会レベルや、カルチャースクールレベルの学校もあります。

そういう状況の中で、正式な神学教育を受けていないのに牧師を自称する人も時々出てきます。たいがいそういう人は、自己流で、著しく聖書から逸脱した教えをします。中には、社会的な問題を起こすような人になってしまうことがあります。

私は、必ずしも神学校という名のつく学校を卒業していなくても牧師になれると思います。もちろん、神学校教育に準ずる勉強や訓練は必要です。ある牧師は、自分の牧師のカバン持ちとして何十年も訓練を受けた上で、後任の牧師になりました。とても立派な働きをしています。

牧師を自称する人が、聖書から逸脱した教えをして、クリスチャンたちを惑わしたり、社会的な問題を起こすようになることをどうやって抑止することができるでしょうか?

ある教団や団体は、評判が悪かったり、問題がある牧師を除名してしまいます。

そうしたら、自分たちの教団や団体から問題の芽を断ち切ったことになりますが、その断ち切った先で問題が起こることがあります。

私は、問題を抑止する手段は、交わりや関係を切ることではなく、保ち続けることにあると思います。

私には、問題のある牧師やクリスチャンとの関わりがあります。ある人から忠告を受けました。「ああいう人と付き合っていたら、菅野牧師が誤解されてしまいますよ」。

でも、自分の評判や名誉のために牧師をしているのではありません。有名になることも避けたいと思います。しかし、問題がある人であっても、交わりを保ち続けることで、問題を事前に察知し、抑止することができたならば本望だと思います。

問題を起こす牧師には少し前から兆候があります。他の教会や教団、組織から距離を置きます。やがて、一匹狼になり、「何々ミニストリー」とか、「何々の会」などの名称で、独自の働きを展開するようになっていきます。

他の牧師やクリスチャンと交わりを持って、意見交換をしていると、道を外しそうになると必ず忠告してもらえます。そこで、勘違いして、「私は牧師仲間から妬まれている!」「同じキリスト教徒から迫害されている!」「人々から宗教弾圧を受けている!」と受け止めて聞く耳を持たないなら、やっぱり道を踏み外してしく人もいますが、少なくても、関わりを持ち続けることで、問題を半減させられます。

「人のふり見て我がふり直せ」といわれますが、「この人おかしいな〜、聖書がしてはいけないということばかりを行っている」と思える知り合いがいます。

活躍している牧師の中で、有名な牧師を追っかけて、その働きをマネしたり、自分の教会や働きに取り入れて大きな働きをしている人がいます。実は、私もそういうことができたらいいなーと思っています。

しかし、それができなくても、すごくいい学びが、お金をかけず、時間もかけなくてもすることができます。

問題がある牧師を見ることで、「その牧師がやっていることをやらない」という実践的勉強法です。

さらに、人のふり見て我がふり直しつつ、「牧師先生、それはおかしいんじゃないですか!?」と、謙遜な心と愛を込めて話すこともとてもいい勉強になります。ちょっとでも「この人おかしいから教えてやろう!」というような態度を見せたら真っ直ぐに伝わらないからです。

今日は、午後から寺社に油まき事件の記者会見が行われ、新聞社などの主要各社を含む70名の報道陣が集まりました。写真は中田さんから提供してもらいました。

記者会見の後、2時間のカルトセミナーが行われました。

ブログでカルトや異端のキリスト教をたたくことで有名な先生ですが、お会いしてみると一見優しい型ですが、お話を聞いていると、ブログと同一の先生だなーと思いました。話を聞いてわかったのは、「何でもかんでもダメ!」というのではなく、ちゃんと聖書的な根拠を持って、真面目に教会のカルト化の阻止に努めておられることがわかりました。

セミナーのテーマは、「教会のカルト化 〜神のことばに混ぜ物をして売る危険〜」です。

聖書には、「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです」(IIコリ2:17)という言葉があり、その言葉から題を取ったのだと思います。

この時代、多くの教会が純粋に聖書の福音だけを語るのではなく、福音に違う教えや哲学をミックスして語っているというのです。公式にすると、

福音+成功哲学=繁栄の神学

繁栄の神学に完全に傾倒している教会もありますが、多くの場合、多少の影響を受けている可能性があります。

繁栄の神学は、お金持ちになったり、願った通りになり、病気がいやされ、成功することが善であり、神の祝福だと考えます。

貧乏で、願った通りにならず、病気が治らず、成功しないことは悪であり、神の呪いを受けているという考えになります。

これは、聖書的な教えのようですが、実は、非聖書的です。

神様の祝福は、どんな状況の中にあっても与えられています。また、祝福と苦難はセットです。苦難でさえも、神は祝福のために用いられます。

多くのクリスチャンから相談を受けますが、その中に、「神様が思った通りにしてくれないので、私は神を信じない!」という人がいます。

神様が、私たちの思う通りにしてくれるとしたら、その時点で神ではありません。私たちが神であり、神様は小遣いさんであり、子供のわがままに翻弄され、仕方なく聞き入れる親のようです。

クリスチャンが、正しく聖書を理解していたとしたら、病気なったとか、貧乏な生活から脱出できないとか、思った通りの人生が生きられないとしても、神に愛されている確信と喜びがあり、神が良いお方であると信じて生きられるのです。

聖書の福音に、混ぜ物をすることで、それを語る牧師や、それを聞く信徒は不健全で、間違った生き方をしてしまうことになります。

寺社に油をまく事件は、そういう聖書に混ぜ物をすることから起こってしまった事件なのです。

本屋に行くと、ナポレオン・ヒルやマーフィー、ノーマン・ビンセント・ピールなどの成功哲学の本が売られています。

成功哲学は一通り勉強しました。私は、あらゆるジャンルの哲学や文学を勉強することは有益だと思います。しかし、その考え方や哲学を聖書に混ぜて語ることはあってはならいとあらためて感じます。

私は、人間が創作した言葉が混ざった教えが人を生かすのではなく、神の言葉が人を生かすと信じます。

そして、神の言葉を聞き、神の言葉に生きたら、決して、今回のような事件も起こらないし、本当に幸せで、祝福された人生が生きられと確信します。

セミナーが終わってから、私は、一人で刀削麺を食べに行き、行きつけの銭湯でゆっくりお風呂に入りました。つかの間の幸せを感じました。

今日の午後からは雨が降り出し、恵みの雨の滴りを肌で感じることができて、しっとり清々しく感謝でした。

晴れも感謝、曇りも感謝、風も雨も嵐も感謝です。

晴れの日は「ハレルヤ」。雨の日は「アーメン」と生きたいです。

一日お疲れ様でした。また明日お会いしましょう。

おやすみなさい。

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